第64話 先に、帰らないでください
日曜日、制作室の扉を開けると、森野さんがもう来ていた。
通話で見たとおりの人だったが、立って挨拶されると、画面越しより少し緊張した。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
机の横へ、椅子が二つ並べてあった。
安西さんが一つを少し後ろへ動かし、ここを出口にしようと、扉の手前を示す。
今日は、台詞を言うだけでなく、動きも少し試すらしい。
俺は、台本と歌詞の紙を出した。
最初は、座ったまま読んだ。
森野さんの返事は、通話のときより短かった。
「帰るぞ」
そのあと、紙を揃える音がする。
俺は顔を上げた。
「三分だけ、残れよ」
「お前の三分、長いんだよ」
安西さんと試したときと、同じ台詞だった。
でも、言い方が違う。
怒っているのではなく、もう何度も聞いたという感じがした。
「今日は、短い」
俺が返すと、森野さんはすぐに次へ進まず、こちらを見た。
台本へ目を落としかけて、やめる。
信用してもらえていないらしかった。
思わず、少し笑った。
森野さんも、口元だけで笑った。
「じゃあ、聞こうかな」
その言葉は、台本にはなかった。
安西さんが手を上げる。
「今の感じ、好きです。ただ、座るのはもう少しあとにしましょうか」
俺は、ようやく肩を下ろした。
返事を間違えたのかと思って、少しそわそわしていた。
立って、同じ場面をやった。
森野さんはバッグを持ち、扉のほうへ歩く。
俺は一歩だけ近づいて、声をかけた。
すると、相手は止まったものの、体はまだ出口を向いていた。
(まだ帰る気だ)
台詞を言っただけでは、残ってくれないらしい。
俺は手元の紙を見せた。
「できたから」
新しい歌のことだった。
森野さんが、ようやく紙を見る。
視線が戻ってきて、俺は次の言葉を出せた。
そこまで進めると、安西さんが止めた。
「今、歌詞を見せたところ、いいですね。台詞の前に、何を聞いてほしいかわかりました」
「はい」
「レンは、紙を見せるのをちょっと迷ってもいい。できたばかりだから、反応が欲しいけど、気にもなる」
俺は、紙を持つ手を見た。
その気持ちは、わかった。
録った声を何度も自分で聞いておいて、人に再生されると落ち着かなくなる。あれと、少し近いのかもしれない。
今度は、紙を差し出しかけて、一度引いた。
もう一度見せる。
森野さんが、それを見て顔を上げた。
その反応が来るまで、少し待った。
演技を上げてから、どういう顔を作るかは前よりわかる。ただ、相手が見てもいないところへ見せても、やり取りにならない。
今の相手を見ているほうが、次の動きも決めやすかった。
「早いですね。今の、もう変わった」
森野さんが言った。
「……そうですか」
「さっきより、見せるか迷ったのがわかった。こっちも、じゃあ見ようってなります」
嬉しかった。
もう一度同じところをやりたいと思ったが、森野さんは別の案も出していた。
「逆に僕が先に紙へ手を出したら、どうなります?」
安西さんがうなずく。
「やってみましょう」
俺は紙を持ち直した。
今度は、取られる前に渡せるだろうか。
*
短い休憩になった。
森野さんが、椅子へ戻りながら笑う。
「もう五回くらい帰ろうとしてるんだけど、全然帰れないですね」
「……すみません」
「あ、謝らないで。残る役なので」
俺も、少し笑った。
冗談なのはわかったのに、先に謝ってしまった。
(仕事なんだから、止めていいんだよ)
自分が演じる人物の台詞を見た。
これくらいまっすぐ引き留められたら、歌う機会も増えそうだった。
*
休憩のあとは、歌へ入るところを合わせた。
石倉さんが、伴奏を流す。
曲名は『まだ、ここで』。映像では、六十五秒の部分を使うという。
森野さんは立ったまま、俺の歌い出しを待っていた。
最初の一行を、近くにいる相手へ向けて歌う。
広場へ歌うときほど、大きく広げなかった。
途中で森野さんが椅子へ座る。
それが見えると、少し安心して、次の音を明るく出せた。
最後まで歌ったところで、石倉さんが伴奏を止めた。
「その感じで、声も録りたいですね」
俺はうなずいた。
森野さんが、こちらを見て言う。
「ああ、それなら残ります」
俺は、持っていた歌詞の紙を膝へ置いた。
返事をするより先に、嬉しくなっていた。
(じゃあ、もう一曲)
そう思ったが、今日用意されている歌は一つだった。




