第57話 この続き、歌います
日曜日、十一時半の少し前に、ステーションスクエアへ着いた。
バスを降り、入口の案内板を見る。
今日の催しが、時間順に並んでいた。
工作の実演。地域の子供たちの発表。その下に、久瀬凪ミニライブ。
午後一時半。
俺は、自分の名前の前で少し止まった。
前にも、ここへ名前を載せてもらった。
それでも、今日の分を確かめると嬉しかった。
(よし。今日もある)
案内板を過ぎ、広場へ向かった。
*
舞台の脇では、倉田さんが音を確かめていた。
俺が挨拶すると、片手を上げてくれる。
「今日もよろしく。曲、五つとも入ってるよ。新しい伴奏も届いた」
「お願いします」
石倉さんから渡してもらった、合図つきの伴奏だった。
今日は、倉田さんのところで音を出してもらう。
マイクを受け取り、まず『日なたのベンチ』の低いところを短く歌った。そのあと、『ひとつ先の週末』の始まりと最後も確かめる。
広場へ声が返った。
昨日までの部屋より、大きく広がって聞こえる。
俺は、声を張りすぎない位置へマイクを戻した。
「最後のほう、いいね。そこで急に大きくなりすぎなければ、今ので大丈夫」
「はい」
もう一度、最後の部分だけ歌った。
広げたい音は出し、その次の言葉を少し柔らかくする。
倉田さんがうなずいた。
確認を終えると、宮田さんが今日の進行を伝えに来た。俺の前は子供たちの発表で、そのあとに短い準備の時間があるという。
俺は出番を確かめ、マイクを戻した。
*
出番の準備をしていると、相原さんから、用事が長引いて今日は間に合わないと連絡が来た。
了解です、と返し、スマホをしまった。
一時を過ぎた頃、客席のほうに藤崎さんがいた。
近くまで来て、手を小さく振る。
「おはよう。今日は後ろから聞くね」
「ありがとうございます」
「『日なたのベンチ』も、楽しみにしてる」
「二曲目です」
「うん。最後までいるつもり」
そう言われて、俺は少し笑った。
歌う順番だけ伝えて、二曲目だけ聞いてほしいようになっていたかもしれない。
(全部、聞いてほしいです)
心の中で足してから、舞台の脇へ戻った。
子供たちの発表が始まる。
家族らしい人が、前のほうで手を振っていた。席には、いつもの歌の催しより小さい子供も多い。
その後ろには、買い物袋を持った人や、休憩するために座ったらしい人もいた。
この人たちの前で歌う。
曲順は、覚えている。
歌詞も、声の出し方も、何度も確かめた。
それでも、出番の五分前になると、飲み物をもう一口飲むべきか、飲まないほうがいいのかで迷った。
結局、小さく一口飲んだ。
蓋を閉めたところで、宮田さんに呼ばれた。
*
一時半。
紹介を受けて、舞台の中央へ出た。
俺は客席へ頭を下げた。
「こんにちは。久瀬凪です。今日は五曲、歌わせていただきます」
声が、思ったより落ち着いて出た。
客席の後ろで、藤崎さんがこちらを見ている。
ほかにも、顔を向けてくれている人がいた。
「まずは、『晴れたら遠回り』です」
倉田さんを見る。
前奏が始まった。
息を吸うまでの短い間に、肩の力を落とす。
最初の一音は、素直に出た。
*
軽いテンポに乗せて、歌った。
前にここで歌ったときより、言葉の細かいところまで気を配れる。明るい歌だからといって、全部を同じ強さで押さなくてよかった。
サビで顔を上げる。
前の席の子供が、隣の大人を見ながら、少しだけ手を叩いていた。
その大人も、同じ拍子で手を動かした。
俺は、そのまま次の言葉を歌った。
通路を歩いていた人が、端へ寄って立ち止まるのが見えた。
一曲目を最後まで歌い、伴奏が終わるのを待つ。
拍手が聞こえた。
俺は礼を言い、マイクを持ち直した。
(いい。もう一曲いける)
予定では、あと四曲ある。
*
二曲目の『日なたのベンチ』は、静かな前奏で始まった。
さっきまで手を叩いていた人も、椅子へ座り直す。
低い歌い出しを、少し近くへ話すように出した。
自分では十分小さいつもりでも、マイクを通した言葉は、ちゃんと広場へ届いている。
声の響きを残し、語尾を急いで捨てずに次へつなぐ。
前のほうにいた年配の男性が、顔を上げた。
サビへ入ると、口元が少し動いた。歌詞をなぞっているように見えた。
俺も、その先を歌う。
高くなるところで、一度声を伸ばした。
力で押さなくても、欲しい音へ届いた。
練習の部屋で気持ちよかったところだ。
今日は、そのあとに客席がある。
男性の隣にいた女性も、こちらを見ていた。
最後の音まで伸ばし、マイクを少し下ろす。
一曲目よりも近いところから、拍手が聞こえた。
*
「ありがとうございます」
俺は、息を整えた。
次は、あの曲だった。
「先日のワークショップの映像で、歌を担当しました」
客席の端で、女の子が顔を上げた。
隣にいた人へ何か話し、入口のほうを指している。
「今日は、その曲を最後まで歌います。『ひとつ先の週末』です」
伴奏の合図が聞こえた。
俺は前を向いた。
*
聞き慣れたギターに合わせ、最初は柔らかく歌った。
画面の向こうの、一人を誘うために録った声だった。
その歌い方は、今日も使えた。目の前にいる人を見ながら、気軽に出かけてみたくなるくらいの明るさで歌う。
女の子が、小さく隣の人の袖を引いた。
「あの歌」と言ったのが、近かったので聞こえた。
俺は、少し嬉しくなった。
(そう。それです)
ただ、返事はできないので、そのまま歌った。
告知の短い版で終わっていたところを過ぎる。
伴奏が進み、次の歌詞へ入る。
録音では、何度もやったところだった。今も迷わず歌える。
二番では、少し声を明るくした。
さっきより遠くの席へも顔を向ける。最初から座っていた人だけでなく、通路の脇に残ってくれた人もいた。
その向こうへ、声を押し出しすぎないようにした。
マイクがある。
無理に大きくしなくても、聞いてもらえる。
最後のサビへ進む。
石倉さんに、もう少し明るく広げたいと頼んだところだった。
息を吸い、音を上げた。
声が伸びた。
少し長く保ち、それでも次の言葉へ移る息は残した。
客席の後ろで、藤崎さんが顔を上げている。
俺は最後の一行を、柔らかく歌った。
声を弱めても、言葉は消えなかった。
伴奏だけが、少し続く。
終わった。
拍手が来た。
俺は、その場で少し笑ってしまった。
*
「ありがとうございました」
頭を下げてから、客席を見た。
女の子も、手を叩いていた。
その横の人が、「続きもあったんだね」と話している。
全体を歌ってよかった。
もう一度最初からやりたくなったが、時計を見た。次の曲がある。
(落ち着け。今、三曲目)
マイクを持ち直した。
『四月の傘』は、少し静かに始めた。
今の歌のあとでも、次の曲に合わせて声を変えられる。佐伯さんの鍵盤で歌ったときの終わり方を思い出し、今日は伴奏の長さに合わせて、最後の言葉を置いた。
拍手を待って、最後の曲名を伝える。
「最後は、『帰り道』です」
客席の後ろの女性が、一度うなずいた。
前の公演でも立って聞いていた人だった。
今日は一人で、買い物袋を足元へ寄せていた。
また来てくれたのかもしれない。
そう思うと、ちゃんと最後まで聞いてほしくなった。
*
前奏が流れた。
何度も歌った曲だった。
中学生の頃に出なかった高い音も、今日はどう出すかを選べる。
最初のサビでは、少し抑えた。
二番から、声の明るさを変える。
最後にもう一度高くなるところで、十分に息を取った。
音が、まっすぐ出た。
ただ届くだけで終わらせず、そのまま伸ばす。
次の言葉へつながるところまで、声が残った。
俺は、客席を見た。
マイクを持っている手に、余計な力は入っていなかった。
好きなところを、好きなように歌えていた。
最後の音を閉じ、伴奏が終わるのを待つ。
拍手が、広場の前と後ろから聞こえた。
俺は礼を言い、深く頭を下げた。
五曲、歌った。
*
舞台を下りると、宮田さんが時計を見てうなずいた。
「ありがとうございます。時間もちょうどよかったです」
一時五十四分には、まだなっていなかった。
倉田さんへマイクを返し、礼を言う。
「新しい曲、生で聞くと最後がいいね」
「ありがとうございます」
「あそこ、音の確認でやっておいてよかった」
俺はうなずいた。
舞台から離れる前に、さっき後ろで聞いていた女性が声をかけてくれた。
「前にも聞きました。今日は、この曲も聞けてよかったです」
手にしたスマホには、施設の案内ページが出ていた。
「あの映像を見て、来てくださったんですか」
「はい。時間がわかったので。最後の歌も、また聞けて嬉しかった」
「……ありがとうございます」
女性が帰ったあと、俺は少しの間、その場にいた。
あの十五秒を見て、時間を合わせて来た人がいた。
しかも、前の歌も覚えていた。
(撮ってよかったな)
思い切って笑った映像を出しておいて、よかった。
*
藤崎さんが、客席のほうから来た。
「お疲れ。すごくよかった」
「ありがとうございます」
「あの曲、最後あんなふうになるんだね。短いほうだけだと知らなかった」
「最後、好きなんです」
「うん。歌ってるとき、ちょっと笑ってた」
俺は口元へ手をやりかけて、下ろした。
笑った覚えは、ある。
あそこで、聞いてもらえているのが嬉しかった。
「……楽しかったので」
そう答えると、藤崎さんもうなずいた。
「また聞きたいな」
俺は、まだ片付けの始まっていない舞台を見た。
今すぐなら、もう一回歌えた。
ただ、次の人たちが、運ぶ物を揃えて待っている。
バッグを持ち、舞台の脇を空けた。
「俺も、また歌いたいです」
今日は、それを普通に言えた。




