第5話 曲が始まるまで
四時になると、藤崎さんのスマホが鳴った。
「相原くん着いたって。迎えに行ってくるね」
「はい」
扉が閉まってから、グラスを少し寄せた。三人で座るなら、もう少し真ん中を空けておいたほうがよさそうだ。
座り直すついでに、ゲームを開く。
使えるキューブが、百億を超えていた。
さっきの報酬は、作った量の累計だった。今度は、買い物に使える残高のほうだ。朝に設備を買った分も埋まって、ようやく届いた。
【合成ユニット】
【購入価格:10,000,000,000】
【生産量:1,000,000/秒】
これに恒久倍率がかかるので、一つで毎秒四百万増える。
俺は購入した。
【生産速度:4,688,128/秒】
ソファに座り直したばかりなのに、また前へ寄った。
速い。
寝る前は六万だった。それが今は四百万を超えている。あれだけ貯めた百億を使った直後から、もう次の設備を買うための数字が増え始めていた。
ここまで来たら、また少し安いラインを買い足すのがよさそうだ。
次の値段へ目を向けたところで、廊下から足音が聞こえた。画面を閉じ、体を起こす。
藤崎さんに続いて、背の高い男の人が入ってきた。薄いグレーの上着に、肩から大きめのバッグを掛けている。
「初めまして。相原です」
「……久瀬です」
俺が立って頭を下げると、相原さんも軽く会釈した。
「藤崎さんから聞いた。今回、一緒に出るんだって?」
「はい。今日、申し込みました」
「じゃあ、もう参加者だ。よろしく」
相原さんは空けた場所へ座り、バッグを足元に置いた。
俺も座る。
思ったより、普通に話せた。相原さんがすぐに話しかけてくれたので、黙ったままにならずに済んだ。
「相原くん、今年もギターで練習してるの?」
藤崎さんが尋ねる。
「うん。でも大会は会場の伴奏でしょ。そっちでも合わせておこうと思って」
バッグから出てきたのはギターではなく、折り目の付いた紙だった。曲の順番と、練習で気をつけることが短く書いてある。
会社で働きながら、休日に弾き語りをしているらしい。去年は本選に進んだが、入賞できなかったそうだ。
「今年は名前呼ばれるところまで行きたいんだよね」
「私はそこに残るところからだよ」
藤崎さんが言うと、相原さんはうなずいた。
「曲、決まった?」
「うん。さっき決めた」
「じゃあ、一度本番みたいにやってみない? 入って、名乗って、歌うところまで」
俺はマイクを見た。
名乗るのか。
名前は今も言ったが、正面に立って二人に聞いてもらうのは、別の話だった。
歌なら、さっきより自信がある。その前も練習できるなら、やっておきたい。
*
最初は相原さんがやってくれた。
入口近くからテーブルの横まで歩き、俺たちの座るソファへ向き直る。マイクを片手で持って、軽く頭を下げた。
「相原悠介です。よろしくお願いします」
普通の大きさの声で、はっきり聞こえた。
藤崎さんが伴奏を流すと、相原さんは少し肩を動かした。歌い出すまで、こちらを見ている。
俺も何となく、姿勢を正した。
歌が始まると、すぐに足で拍子を取りたくなった。
高い音を長く伸ばす曲ではない。短く切った言葉が伴奏に乗って、次々に聞こえてくる。強く出すところがわかりやすいので、一緒に聞いていて気持ちよかった。
画面で歌詞を確かめたあとも、相原さんはすぐに顔を戻す。
俺も、あれができたらいい。
一番が終わっても、相原さんはその場に立っていた。短く残った伴奏が切れてから、頭を下げる。
「ありがとうございました」
藤崎さんと一緒に、拍手をした。
「こんな感じ。去年さ、歌うところしか練習してなくて。自分の番になったら、荷物どこに置くんだっけってなったんだよね」
相原さんはバッグを見て、笑った。
荷物。
それは今、初めて考えた。
財布も鍵も持っていく。会場で歌い始める前にポケットを一つずつ確かめていたら、なかなか前奏へ進めなさそうだった。
「先に一度やっとくと、歌う前が楽だよ。藤崎さん、次いく?」
「うん」
藤崎さんも入り口の近くへ移動した。
マイクを持って正面に立つと、さっきまで隣で話していたときと、少し雰囲気が変わる。曲名を伝え、一度息を吸った。
『窓の灯り』の前奏が流れる。
俺は、さっき好きだと言ったところを待った。藤崎さんが顔を上げ、今度は相原さんのほうも見てから、続きを歌う。
歌い終わると、相原さんがうなずいた。
「こっちにしたんだ。声が急がなくなって、いいね」
「でしょ。でも、しゃべるときのほうが緊張した」
藤崎さんは手のひらを見た。
俺だけではないらしい。それがわかったところで、二人がこっちを向いた。
「久瀬くん、やってみる?」
「……はい」
もう少し座っていたかったが、歌うのを聞いてもらいたいのも本当だった。
水を一口飲んで、立ち上がった。
*
入口の脇へ行くと、二人がよく見えた。
相原さんとは、会って二十分くらいしかたっていない。さっき足で拍子を取って聞いていた人の前で、今度は俺が歌う。
テーブルの横まで歩き、右斜め前にあるテレビの位置を確かめた。
録音も残しておきたかったので、スマホを藤崎さんへ預ける。俺の番だけでいいと伝えると、膝の上で持ってくれた。
「録音、始めるね」
俺はマイクを持ち直した。
「……久瀬凪です」
名前は言えた。曲名も忘れないうちに続ける。
「『帰り道』を歌います。よろしくお願いします」
頭を下げて顔を上げると、相原さんがこちらを見ていた。
「どうぞ」
伴奏が始まった。
歌うまで、少しある。
マイクを下ろしたほうがいいだろうか。でも、すぐに上げ直すのも落ち着かない。相原さんは普通に立っていた。
(マイクの位置くらい、さっさと決めろよ。今から歌うのに)
早く歌うところへ行きたい。
右の画面に歌詞が出て、ようやく息を吸えた。
最初の声は、ちゃんと出た。
二行目も同じように続く。次に出す音も、息を吸う場所もわかっていた。さっき二回目に録ったときと、同じ声で歌える。
大丈夫だ。
少し余裕が出て、サビの前に画面から顔を離した。
相原さんが、足先で拍子を取っていた。
俺の歌でも、それをやってくれるらしい。
嬉しくなって、そのまま高いところへ入った。
今度も届いた。無理に喉を締めず、次の言葉まで続けられる。
最後は、少し声を落としてみた。
強く終わるより、このほうが好きだ。声が消えるところまで、自分でも聞いていたくなった。
一番が終わり、マイクを下ろす。
礼を言って戻ろうとしたところで、伴奏がまだ流れているのに気づいた。
足を止める。
終わるまで待ってから、頭を下げた。
「ありがとうございました」
二人が拍手をしてくれた。
ソファへ戻ると、思っていたより大きく息が抜けた。
「最後のところ、よかった」
相原さんが言った。
「静かに終わると、そのあとの伴奏も聞きたくなるね」
「……ありがとうございます」
そこを気に入ってもらえたのか。
自分でそうしたかったところなので、音程が合っていると言われるのとは、また違って嬉しかった。
「でも、帰るのだけ早かったな」
藤崎さんも隣で笑った。
「私も、戻ってくるかなって思った」
見られていた。
最後まで聞いてほしかったくせに、自分が一番早く帰ろうとしていた。
(座りたすぎだろ、俺)
「一番が終わってからも、待つんですね」
「うん。大会でどこまで音を流すかは、当日の説明にもよるけど。聞こえてる間は待っておけば、慌てなくて済むよ」
相原さんは、俺が立っていたところを指さした。
「自己紹介は今くらいで大丈夫。名前も曲もわかったし」
そこは、ほっとした。もっと何か話すことを増やすのかと思っていた。
「久瀬くん、始まったら普通に歌うから、そんなに緊張してないのかと思った」
「……してました」
藤崎さんは「そうだったんだ」と言い、グラスを取った。
大げさに驚かれなかったので助かった。歌っているときは、さっきより楽しかったのも確かだった。
*
残りの時間で、最後の部分だけもう一度試した。
歌い終えてから、伴奏が切れるまで立って待つ。
数秒だった。
終わりがわかっているだけで、ずっと楽だ。次に名乗ったときも、マイクを上げたり下げたりするかで迷わずに済んだ。
相原さんも、自分の歌で迷っているところを二通り歌ってみせた。
「どっちが聞きやすかった?」
「私は最初かな」
藤崎さんが答えた。
俺は、二回目のほうが好きだった。先に違うほうを言われると少し迷うが、聞かれているのだから答えたほうがいい。
「……俺は二回目でした。途中で言葉を切ったほうが、続きがわかりやすくて」
「なるほど。藤崎さんは、つなげるほうがいい?」
「うん。でも、どっちも変ではなかったよ」
相原さんは紙の隅に、何か書き足した。
意見が違っても、困ってはいないらしい。今度はもう少し弱く歌ってみる、と言っている。
俺も続きを聞いた。
こっちもいいなと思う。歌がうまくなると、出せる音が増えるだけでなく、こういうことを選べるのか。
自分の曲でも、また試したくなった。
終了十分前の電話が鳴ったときには、もう時間かと時計を見た。
藤崎さんが返事をして、端末を充電台へ戻す。
「予選前に、もう一回くらい合わせたいね」
「俺、来週の休み、あとで送るよ」
相原さんが紙をバッグへしまった。
俺はグラスを寄せながら、二人を見た。
またやるなら、来たい。
さっきは相原さんが来ると聞いただけで身構えていたけれど、一時間では足りないくらいだった。
「……俺も、次、入れてもらっていいですか」
「もちろん。そのつもりだったよ」
藤崎さんが答え、相原さんもうなずいた。
「予定合えば、また三人でやろう」
「お願いします」
次も、この二人に聞いてもらえる。
歌い終わってから、よかったところを教えてもらえるのも楽しみだった。今日よりうまく歌って、またああ言ってもらいたい。
フロントで人数と時間に合わせて精算し、外へ出た。
空はまだ明るく、買い物帰りの人が歩道を歩いていた。今日は二人と話しながらなので、帰り道に歌うことはなかった。
二人と別れ、信号で止まったところでゲームを開く。
合成ユニットのおかげで、キューブはまた貯まっていた。五本目の組立ラインを買い足す。
これで、毎秒四百八十四万ほど。
朝には高かったラインが、今は練習している間に買える。増えた数字を少し眺めてから、表示を閉じた。
青信号を渡り、道の端でイヤホンを付ける。
録音を再生すると、歌う前の声が入っていた。
『久瀬凪です』
ちょっと硬い。でも、名前はちゃんと聞こえた。
曲名を言ったあと、相原さんの「どうぞ」が小さく入っている。
スマホをポケットへしまい、前奏からそのまま聞いた。最後に声を落とすところまで、今日は飛ばさずに聞きたかった。




