第45話 一人を誘う歌
金曜日の午後二時、録音室のマイクの前へ立った。
ヘッドホンをつけ、歌詞を譜面台へ置く。
前に来たときと、同じ場所だった。
今度は丸い網を見ても迷わず、その手前で止まれた。
『では、長いほうから。一度、最後までお願いします』
「はい」
伴奏が始まる。
最初の言葉を出した。
昨日、部屋で歌ったとおりに続けられた。
一番のサビから、間奏を挟んで二番へ。
変わったところの旋律も、声に出す前にわかる。
最後まで歌い、伴奏の終わりを待った。
『ありがとうございます。もう覚えてきていただいたんですね』
「昨日、何回か歌ったので」
『助かります。では、ここから雰囲気を合わせていきましょう』
石倉さんが、画面を一つこちらへ向けた。
まだ作っている途中の、告知映像だった。
*
画面には、木の板へ色をつけている手が映っていた。
次は、机に並んだ材料。
そのあとに、できたものを見せ合っている人たち。
最後には、催しの名前と日時が出る。
石倉さんは、途中のところで止めた。
『買い物に来た人が、これも見ていこうかなと思うくらいにしたいんです』
「はい」
『さっきのサビは、少し遠くへ呼びかける感じでした。もう少し近くの、一緒に来た人へ歌うようにできますか』
俺は、歌詞の紙を見た。
試し録りでも、柔らかく歌うところは作った。
でも、サビへ入ると、つい声を広げたくなる。
広い場所で歌ったときの、よく通る感じが好きだった。
『たとえば、隣の人へ、あっちも見ていこうよって』
石倉さんが言った。
俺は、藤崎さんと店の前を歩くところを思い浮かべた。
気になるものがあれば、見ていきたい。
ただ、たぶん俺なら、立ち止まってから「あの」と言う。
何を見たいのか、最初に言えないこともある。
(歌なら、先に言うことが決まってるのに)
歌詞へ目を戻す。
今は、ちゃんと決まっていた。
*
もう一度、同じところを歌った。
最初の言葉は、少し近くへ出す。
サビで声を広げすぎず、そのまま次へ誘うつもりで続ける。
音の高さを変えなくても、歌い方は変わった。
最後まで歌うと、石倉さんがすぐに再生した。
先ほどの映像も、一緒に流れる。
机へ並ぶ材料の上で、俺の声が歌っていた。
柔らかくした言葉の先で、画面が、笑っている人の顔へ切り替わる。
俺は、ガラスの向こうへ少し顔を寄せた。
合っていた。
自分で歌った声なのに、最初からこの映像についていたように聞こえる。
石倉さんが、再生を止めた。
『こっちでいきたいです。今の方向、歌っていてどうですか』
「……いいと思います」
それだけでは、足りない気がした。
「画面と一緒に聞くと、こっちのほうが、好きです」
『よかった。僕もそう思います』
石倉さんが笑った。
*
短い版を録る前に、水を飲んだ。
石倉さんは、机で録った音を並べ直している。
まだ時間はあった。
俺は、ヘッドホンを片耳へ戻した。
「石倉さん」
『はい』
「長いほうの最後のサビだけ、もう少し声を出してもいいですか」
言ってから、歌詞の端を指で押さえた。
さっき決めたばかりなのに、と思われるかもしれなかった。
でも、二番のあとだけは、広く歌うところも聞いてみたかった。
『明るく広がる感じですか』
「はい。最初より、少し」
石倉さんは画面を見てから、うなずいた。
『長いほうなら、試せます。最後だけ、別に録りましょうか』
「お願いします」
返事をして、マイクへ向き直った。
*
二番の終わりから、伴奏が流れた。
手前の一行を歌い、息を吸う。
最後のサビで、声を広げた。
いきなり大きくするのではなく、一つ目の言葉から、少しずつ出していく。
高いところへ上がったとき、声が楽に伸びた。
好きな響きだった。
そのまま歌い、終わりで柔らかく落とす。
声を離したあと、石倉さんの返事を待った。
少しして、再生が始まった。
前半は、近いところで歌っている。
最後のサビでは、その声が明るく広がる。
俺は、譜面台の端から手を離した。
こう歌ってみたかった。
『いいですね。長いほうは、最後これにしましょう』
「ありがとうございます」
石倉さんが、別の録音へ名前をつけた。
自分で頼んだ歌い方が、一つ残った。
俺はそのファイルが画面のどこへ置かれたのか、つい目で追ってしまった。
*
三十秒の版は、近い声で通した。
終わりも、昨日練習した長さに収める。
一度録り、少し休んでから、同じものをもう一度録った。
石倉さんは、頭から終わりまで聞いていた。
『大丈夫です。今日は、ここまでにしましょう』
俺は息を吐いた。
ヘッドホンを外すと、部屋が急に静かになった。
耳の近くで聞こえていた伴奏が、消えている。
少し物足りないまま、歌詞の紙をまとめた。
*
隣の部屋へ戻ると、石倉さんが飲み物を飲んでいた。
「お疲れさまでした。希望、言ってもらえてよかったです」
「……最後の、ですか」
「はい。あれがあると、長いほうを最後まで聞く楽しみができますね」
俺はバッグの口を開けた。
嬉しかったので、すぐには顔を上げなかった。
石倉さんは、机へカップを戻して続けた。
「これを整えたものを送ります。気になるところがあれば、教えてください。必要なら、あと一回録りましょう」
「はい。お願いします」
次の火曜日の午後を、追加録音の候補として確かめた。
時計は、まだ四時前だった。
今から戻れば、予定どおり店へ行ける。
扉を出てから、スマホのメモへ、最後のサビ、と書いた。
録音が届いたら、そこから聞きたくなりそうだった。
最初から聞くための曲を作ってもらっているのに、少し待ちきれなかった。




