第42話 もう一度、同じ声で
『次は、最初の言葉を少し柔らかくできますか』
ヘッドホンから、石倉さんの声が聞こえた。
「柔らかく、ですか」
『はい。会場の奥まで声を出すときより、力を抜いて。ここなら、小さい声も拾えますので』
俺は歌詞の最初を見た。
さっきは、伴奏に負けないように、言葉の頭をはっきり出した。
そこを少し弱くすれば、変わるだろうか。
石倉さんが、伴奏を戻す。
四つの音を聞いて、息を吸った。
今度は、最初の声を小さめに出した。
弱くしても、音の高さは保てる。
次の言葉へ続けると、さっきより近いところで話しかけているような声になった。
最後まで歌い、口を閉じる。
『いいですね。いったん、聞いてみましょう』
俺は、肩の力を抜いた。
*
再生された歌の前に、息を吸う音が入っていた。
思っていたより、大きい。
歌い出すまでの短い間に、俺が勢いよく空気を吸っている。
(俺、こんな音立てて吸ってたのか)
歌のほうは、さっきより柔らかくなっていた。
言われた感じに近づいた気がする。
再生が終わってから、聞いてみた。
「最初の、吸う音も入るんですね」
『入りますね。いらないところは、あとで整えます。今は、歌いやすいように吸って大丈夫です』
「はい」
毎回、息を止めて始めなくてもよいらしかった。
少し安心して、水を飲んだ。
『次は、今くらいの柔らかさで、もう少し明るくお願いします。休日に出かけるのが楽しみ、という感じで』
俺は紙の言葉を読み直した。
休みの日に出かけるのを、いつも楽しみにしているわけではない。
予定がなければ、家でゲームをしているだけで十分だ。
でも、歌会へ行く日は楽しみだった。
何を歌おうか考えて、時間より少し早く家を出た。
そのくらいなら、わかる。
「……もう一回、お願いします」
伴奏が始まった。
*
今度は、言葉の終わりを少し軽くした。
次の音へ、明るくつなげる。
大きな声にしなくても、さっきとは違って聞こえた。
マイクの前で、口元が少し緩む。
そのまま最後まで歌った。
ガラスの向こうで、石倉さんが一度うなずいた。
『ありがとうございます。これ、好きです』
俺は、譜面台を見た。
(よし)
顔を上げると、石倉さんはもう再生の準備をしていた。
もう一度聞ける。
歌い終わった直後なのに、そこも嬉しかった。
*
三つの歌い方を、順番に聞いた。
最初は、声の頭がはっきりしている。
二つ目は、柔らかい。
三つ目は、それよりも、出かけるのを楽しみにしていそうだった。
自分では同じ声のつもりでも、続けて聞くと違いがわかる。
俺は、三つ目が好きだった。
石倉さんも、同じところをもう一度流した。
『これを、施設の方にも聞いてもらおうと思います』
「はい」
『念のため、今と同じ感じでもう一本いただけますか』
同じように、もう一度。
俺はさっきの声を、頭の中でなぞった。
どこで息を吸い、どこで力を抜いたかは覚えている。
紙の一行目へ目を戻す。
伴奏が始まり、歌った。
さっきの音へ、そのまま声が入る。
最後まで終えると、石倉さんが画面を切り替えた。
前に録ったものと、今のものを、同じところから続けて流す。
俺にも、よく似ているのがわかった。
『揃いますね』
石倉さんが、小さく言った。
『あとで一部分だけ選ぶときも、これならつなげやすいです』
上手に歌えたことのほかにも、よかったところがあるらしかった。
俺は、ヘッドホンの片側を軽く押さえた。
違いを聞き逃したくなくて、もう少し耳へ近づけてしまった。
*
録音が終わり、隣の部屋へ戻った。
壁の時計は、三時を少し過ぎていた。
まだ、約束した時間には余裕がある。
石倉さんは机の上で紙をまとめてから、椅子をこちらへ向けた。
「僕としては、ぜひお願いしたいです。ただ、向こうの確認もあるので、正式な話は少し待っていただけますか」
「はい」
「全部で二分ちょっとの曲と、映像用の三十秒を考えています。もしお願いするとしたら、来週の金曜、午後は空いていますか」
スマホの予定を開いた。
店の勤務は、その日は夕方からだった。
「四時までなら、大丈夫です」
「では、二時から四時を候補で。決まったら、ご連絡します」
俺は、その時間をメモした。
仮の予定でも、空欄へ文字が入ると、少し嬉しい。
採用されたら、今日の曲をもっと歌える。
*
「今日の分は、先にお渡ししますね」
石倉さんが、封筒を出した。
中には五千円札が一枚入っていた。
金額を確認して、受け取った欄へ名前を書く。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。確認用の音は、あとで送ります。ご自分で聞いておいていただけると」
「……送ってもらえるんですか」
「はい。正式にお願いする場合も、同じ方向で歌ってもらいたいので」
俺はうなずいた。
「お願いします」
返事が、さっきより少し早くなった。
あの音を、家でも聞ける。
バッグへ封筒をしまいながら、スマホが入っているポケットも確かめた。
*
帰りの電車で、石倉さんから音が届いた。
座ってから、イヤホンを挿す。
録音室で聞いたのと同じ歌だった。
伴奏の上に、俺の声がある。
最初の三十秒を聞き、すぐにもう一度戻した。
(いい。思っていたより、ずっといい)
窓に映る顔を見ると、少しだけ口元が緩んでいた。
ほかの人と目が合わないよう、スマホへ視線を戻す。
今、確認用として届いた音を聞いている。
仕事の準備としてなら、何回聞いてもおかしくはない。
(便利な用事ができたな)
三回目を再生した。




