第41話 マイクの前の丸い網
木曜日の午後一時五十分。
保存しておいた写真と、目の前の扉を見比べた。
白い扉。横の看板。
合っている。
電車を降りてから、道には迷わず来られた。財布へしまう前に確かめた運賃は、二百四十円だった。
呼び鈴を押すと、中で足音がした。
「久瀬さん?」
「はい。久瀬です」
扉を開けたのは、短い髪の男の人だった。
三十代くらいに見える。袖をまくったシャツを着て、片手にペンを持っていた。
「石倉です。来てくださってありがとうございます。どうぞ」
「今日は、よろしくお願いします」
頭を下げて、中へ入った。
*
部屋には、大きな画面が二枚並んでいた。
机の左右にスピーカー。その下には、小さな鍵盤が収まっている。
壁際には、ケースへ入ったギターもあった。
「荷物は、その椅子に置いてください」
言われたところへバッグを置く。
石倉さんは、紙を二枚渡してくれた。
一枚は音符のある譜面で、もう一枚には歌詞が書かれている。
どちらにも、『ひとつ先の週末』とあった。
「楽譜、どのくらい読まれます?」
「……あまり、読めないです」
「では、先に音で聞きましょう。仮に僕が歌ったものがあります」
石倉さんが画面を操作する。
スピーカーから、軽いギターの音が流れた。
そのあとに、男の人の声が入る。
石倉さんの声だった。
話すときより少し高く、言葉の頭がはっきりしている。
俺は歌詞の紙へ目を落とした。
まだ三十秒くらいの、短い部分だった。
最後に旋律が少し上がり、柔らかく終わる。
「今日は、この部分を試させてください。まだ仮なので、あとで少し変わるかもしれません」
「はい」
「もう一回、流しますね」
俺は紙を机の上へ置いた。
二回目は、言葉がどの音に乗っているのかわかった。
ただ高い、低いと追いかけるより先に、次に出す声の感じが浮かぶ。
小さく、一緒に歌ってみた。
最後の音まで、つながった。
石倉さんが、こちらを見た。
「そのキー、大丈夫そうですか」
「はい。歌いやすいです」
もう少し大きく出してみたかった。
*
録音する場所は、隣の小さな部屋だった。
ガラス越しに、さっきの机が見える。
マイクはスタンドにつけてあり、その前に丸い網が立っていた。
「このあたりに立ってください。歌詞は、譜面台へ」
石倉さんが、俺の背に合わせてマイクの高さを直す。
網には触らず、その手前へ立った。
「これは、息が直接マイクに当たるのを抑えるものです。口は、このくらい離してもらえれば」
「はい」
声を飛ばせばいいと思っていたが、息は直接当てないほうがいいらしい。
距離を覚えるために、靴の位置を見た。
ヘッドホンを渡される。
つけると、石倉さんの声が急にはっきり聞こえた。
「では、僕は向こうへ戻ります。聞きにくかったり、音が大きかったりしたら言ってください」
扉が閉まった。
ガラスの向こうで、石倉さんが椅子へ座る。
俺はマイクを見た。
手に持たなくていい。
そうなると、両手をどこへ置けばよいかわからなかった。
(マイク一本で、結構ごまかせてたんだな)
とりあえず、体の横へ下ろしておいた。
*
『一度、声を出してもらえますか』
ヘッドホンから聞こえた。
「はい」
返事が、自分の耳へ返ってきた。
思ったより近い。
いつもの小さな声まで、きちんと聞こえる。
さっき聞いた旋律を、最初の一行だけ歌った。
声の終わりに混じる息も聞こえた。
自分の声をこんなに近くで聞くのは、初めてだった。
『大丈夫です。そのくらいの大きさで。では、一回流してみましょう』
短い音が、四つ鳴った。
伴奏が始まる。
歌い出した。
最初の言葉は、思ったところへ入った。
次の言葉も、そのまま続く。
譜面の音符は、まだ追えない。それでも、さっき聞いた旋律を声にするのは難しくなかった。
紙にある言葉を、伴奏に合わせて歌う。
最後の高い音を伸ばし、少しずつ弱くした。
声が消える。
石倉さんは、画面のほうを見ていた。
俺も、そのまま待った。
『ありがとうございます。ちょっと聞いてみます』
すぐに再生が始まった。
さっきまで石倉さんの声だったところを、俺が歌っていた。
*
自分が思っていたより、言葉が聞き取りやすかった。
部屋で録ったスマホの音には、伴奏や壁へ響いた音も入っている。
今のものは、声の細いところまで聞こえた。
伸ばした最後の音も、きれいだった。
少し笑いそうになって、口を閉じる。
石倉さんは、もう一度同じところを流した。
(そこ、もう一回聞きたかった)
ヘッドホンの位置を直し、じっと聞いた。
再生が止まる。
『音程、最初から合いますね。まだ二回しか聞いてないですよね』
「はい」
『助かります。これなら、歌い方のほうをいくつか試せそうです』
石倉さんが、画面の端へ何かを打ち込んだ。
俺は、歌詞を見た。
今ので、もう一度歌っていいのなら、歌いたかった。
少し気に入ったところがある。
次も、あの音を同じように出してみたかった。




