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第38話 次も聞きたい声

 三時になる少し前、スマホの録音を始めた。


 時間の数字が動いているのを確かめて、机の端へ置く。


 マイクを受け取ったところで、客席から話し声が聞こえた。


「あ、この人」


 見られている気がして、顔を向けかけた。


 たぶん、俺だった。


 舞台の横に、同じ顔のポスターもある。


 (実物も、もう少ししゃんとしていよう)


 肩を起こした。


 宮田さんが紹介を終え、こちらへうなずく。


 拍手の中、一回目と同じ場所へ立った。


     *


「久瀬凪です。来てくださって、ありがとうございます」


 客席へ頭を下げた。


 戻ってきた二人が、後ろの列に座っている。


 その前には、さっき案内を見ていた家族連れもいた。


「最初は、『晴れたら遠回り』です」


 伴奏を待ち、息を吸った。


 歌い始めると、一列目の子供がこちらを向いた。


 小さな足が、椅子の下で動いている。


 一回目と同じところで声を上げる。今度は、上がる手前を少し軽くしてみた。


 伸びた声が、そのまま次の言葉へつながった。


 自分の歌いやすいところが、さっきよりよくわかる。


 部屋で歌うときと違い、声が返ってくるまで少し間がある。それでも、足元から聞こえる音を頼りにすると、急がず歌えた。


 サビを歌い終え、前を見る。


 後ろの列の二人が、並んでこちらを向いていた。


 間に合って、最初から聞いてくれている。


 嬉しくなり、次の行を少し明るく歌った。


     *


 一曲目の拍手が落ち着くのを待ち、マイクを持ち直した。


「次は、『駅まで五分』です」


 後ろの二人が、顔を見合わせた。


 その反応だけで、俺も少し笑いそうになった。


「俺も、好きな曲です」


 付け足した声は、短かった。


 それ以上、うまく説明する言葉は出てこなかったが、二人はうなずいてくれた。


 倉田さんへ顔を向ける。


 伴奏が始まった。


 明るい曲のあとに、軽いリズムが続く。


 声を出す前から、客席の何人かが体を動かしていた。


 一行目を歌った。


 短い言葉が続くところも、口の動きに余裕がある。息を余計に使わず、最後の音まで揃えられた。


 サビの手前へ近づく。


 足元の拍を聞いて、少し待つ。


 ちょうどいいところへ、声が入った。


 後ろの二人のうち、一人が小さくうなずいた。


 そこを聞きに来てくれたのかもしれない。


 俺はその先も、練習で気に入った歌い方を続けた。


 最後まで歌い終えると、一回目より早く拍手が聞こえた。


 マイクを下ろし、礼をする。


 息を吐きながら、少しだけ口元が緩んだ。


     *


 二曲続けて歌ったあと、水を飲んだ。


 客席の横に立っている人が増えていた。


 倉田さんの近くにも二人いる。機材へ近づきすぎないよう、床の線より外で止まっていた。


 俺は時計を見てから、三曲目を伝えた。


「次は、『四月の傘』です。少し、静かな曲になります」


 宮田さんが、通路側の椅子を一つ直している。


 空いたそこへ、杖を持った女の人が座った。


 鍵盤の前奏が流れる。


 声を柔らかくして、歌い始めた。


 さっきまで体を動かしていた人も、顔を上げて聞いていた。


 旋律が低くなるところを、急いで通り過ぎずに歌う。


 言葉がよく聞こえる。


 歌っている自分にも、どこを弱くすれば、その先の声がきれいに続くかわかった。


 人前だから大きくしなければ、と力を入れなくても、今の声は届いていた。


 二番の終わりに、少し長い音がある。


 息を足しすぎず、最後まで保つ。


 途中で音が揺れなかった。


 俺は、そのまま次の言葉へ入った。


     *


 最後の『帰り道』を紹介すると、前の列の男の人が「これか」と小さく言った。


 隣に座っている子供へ、何か話している。


 大会を見ていたのか、元から曲を知っているのかは、わからなかった。


 ただ、曲名を聞いて顔を上げてくれた。


 俺は、前奏の間に水を台へ戻した。


 今日、この曲を歌うのは二回目だった。


 音を確かめたときの短いところまで含めれば、三回目になる。


 それでも、歌い飽きたとは思わなかった。


 一行目を出す。


 さっきよりも、落ち着いていた。


 通路の人が動いても、すぐにそちらへ目を向けず、次の言葉を続ける。


 聞いている人の顔を、見られるくらいの余裕があった。


 一番のサビへ入ると、何人かがゆっくりうなずいた。


 声を、もう少し伸ばす。


 高いところも苦しくない。出そうとして出した音が、そのとおりに広場へ響いた。


 この声を持って、ここへ来られてよかった。


 俺は次の息を吸い、二番を歌い始めた。


     *


 最後のサビで、声を広げた。


 もう一度高くなるところへ、そのまま上がる。


 体の力を入れすぎず、音を保った。


 客席の奥にも、立ったまま見ている人がいる。


 その手前では、戻ってきた二人が聞いていた。


 買い物の途中で、一度ここを離れて、それでもまた来てくれた人たちだった。


 最後の言葉を、ゆっくり弱くする。


 細くなっても、声は途切れなかった。


 音を離し、マイクを持ったまま待つ。


 伴奏が終わった。


 少し先の列から拍手が起き、ほかの人も続いた。


 横に立っていた人も、手を叩いている。


「ありがとうございました」


 声に出し、頭を下げた。


 今度は、次の時間を言う必要はなかった。


 今日の二回は、これで終わりだった。


     *


 舞台を下りると、倉田さんが手を出してくれた。


 マイクを返す。


「お疲れさまでした。二回目も十九分くらい。きれいに収まりましたね」


「ありがとうございます」


 机の端に置いたスマホを取り、録音を止めた。


 二十分少しの長さになっていた。出番の前から回していた分も入っている。


 保存できたのを確かめて、バッグを取りに行こうとした。


 客席のほうから、戻ってきた二人が近づいてきた。


「よかったです。あの曲、やっぱり好きでした」


「……ありがとうございます」


「久瀬さんって、ほかでも歌ってるんですか」


 聞かれて、少し迷った。


 カラオケの部屋なら、よく歌っている。でも、たぶん、それを聞かれてはいない。


「人前で歌う予定は、まだ、次が決まってなくて」


「そうなんですね。またあったら、聞きたいです」


 その人は、スマホへ俺の名前を入れていた。


 ポスターを一度見て、漢字を確かめている。


 俺は、その手元を見てしまった。


 (名前まで、覚えてくれるのか)


 隣の人が「また楽しみにしてます」と言った。


「はい。また、歌いに来たいです」


 今度は、すぐに答えられた。


     *


 人が少なくなってから、宮田さんが舞台の横へ来た。


「お疲れさまでした。二回とも、ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


「時間どおり終えていただけたので、隣のお店のご案内も、予定どおりできました」


 隣の机では、店の人が小さな札を立て替えていた。


 このあとも、広場の催しは続くらしい。


「二回目は、私も途中で別の対応へ行けたんです。戻ってきたら、静かな曲を皆さんが聞いていて」


 宮田さんは客席を見た。


「最後まで安心してお任せできました。またお願いしたいです」


 俺は、持っていた水筒を少し強く握った。


「……ぜひ、お願いします」


 宮田さんが笑った。


「では、まず今日の分を。このあと控え室で、お支払いしますね」


「はい」


 俺はうなずいた。


 二万円。


 朝から何度も考えた金額だったが、歌っている間は、頭から抜けていた。


 思い出したら、また嬉しくなった。


 控え室へ戻る足が、少し速くなった。


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