第36話 一曲終わっても、まだ歌える
「それでは、お待たせいたしました」
午後一時。
宮田さんの声が、広場のスピーカーから流れた。
俺は舞台の横で、マイクを持って立っていた。
客席は、半分ほど埋まっている。
朝の音の確認ではいなかった人たちだ。買い物袋を膝へ置いた人も、案内を見ながら待っている人もいる。
「先日の歌唱コンテストで優勝された、久瀬凪さんです。どうぞ、お楽しみください」
拍手が聞こえた。
一段上がり、舞台の中央へ進む。
止まってから、客席へ頭を下げた。
「久瀬凪です。今日は、よろしくお願いします」
声は、ちゃんとスピーカーから聞こえた。
マイクを下へ向けないように持ち直す。
「最初は、『晴れたら遠回り』を歌います」
倉田さんへ顔を向けると、伴奏が始まった。
*
短い前奏の間に、息を吸った。
歌い始める。
足元からも、客席の向こうからも、自分の声が聞こえた。
明るく上がる旋律に合わせ、言葉を前へ出す。
一行目の途中で、通路を歩いていた人がこちらを向いた。
目が合いそうになったので、少し先を見る。
最初から、その人に聞いてもらおうと思って変えた曲だった。
次の行も、はっきり歌った。
客席の一列目で、女の人が顔を上げた。
手元には、小さな紙袋がある。その持ち手を直しかけたまま、俺を見ていた。
サビへ入る。
高い音へ上がる手前で、声を少し軽くした。そのまま上へ持っていくと、音が無理なく伸びる。
広場の奥へ、声が通った。
売り場の話し声は聞こえていた。エスカレーターを使う人も、足を止めてはいない。
その中で、通路の端に立った人が二人いた。
急いで次の言葉を出さず、伸ばした声を最後まで保った。
自分でも、今のところは気持ちよかった。
二番の前奏で、もう一度客席を見る。
さっき通路を歩いていた人も、まだそこにいた。
*
一曲目が終わった。
マイクを口元から少し離すと、拍手が聞こえた。
大会と同じように、礼をして下りそうになった。
でも、今日はまだ三曲ある。
「ありがとうございます」
声に出してから、少し待つ。
拍手が小さくなったところで、次の曲名を伝えた。
「次は、『四月の傘』です」
椅子に座っていた人が一人、バッグを持って立った。
連れの人が、通路の向こうで手を上げている。
二人で歩いていくのが見えた。
少し残念だった。
まだ次もあるのにと思ってしまう。
その隣では、空いた椅子へ、別の人が座った。
俺は前を向き、倉田さんへうなずいた。
鍵盤の音が流れる。
息を吸い、一曲目より柔らかい声で歌い始めた。
*
静かな曲でも、言葉はちゃんと聞こえていた。
練習のときに気に入った一行を、同じように歌う。
語尾を急いで切らず、伴奏が続くところまで声を残す。
前の列に座った男の人が、膝に置いた指で小さく拍を取っていた。
サビに入ると、その指が止まった。
顔は、こちらを向いたままだった。
大きく歌えば振り向いてもらえる、というだけでもなさそうだった。
弱くした声の終わりまで、聞いてくれる人がいる。
俺は最後の言葉を歌い、マイクを持ったまま待った。
伴奏が消えてから、拍手が起きた。
「ありがとうございます」
今度は、言うところで迷わなかった。
横に置いた水を一口飲む。
広場の時計を見ると、まだ十分ほどあった。
予定どおりだった。
*
「次は、『駅まで五分』を歌います」
曲名を言ったとき、後ろのほうで、女の人が連れの人へ顔を向けた。
何か言って、二人で笑っている。
好きな曲なのだろうか。
そうだったら、嬉しい。
伴奏が始まり、今度はリズムに合わせて膝の力を少し抜いた。
最初の言葉を短く切る。
次の言葉を、ドラムに重ねる。
カラオケの部屋で初めて歌ったときより、自分の声がよく聞こえた。
テンポの速いところでも、急ぐ必要がない。音が詰まりそうな場所は、手前の言葉を少し短くすると、次がきれいに入った。
サビの直前で、わずかに間を取る。
相原さんが好きだと言っていたところだ。
練習で試したとおりに入ると、前の列の人が小さく首を動かした。
拍に合わせて、続けている。
俺も口元が緩んだ。
楽しい曲だった。
そのまま最後まで歌い、短い伴奏の終わりに合わせてマイクを下ろした。
さっき曲名で笑っていた二人が、手を叩いていた。
*
三曲終わったところで、客席は最初より埋まっていた。
椅子の横にも、何人か立っている。
俺は水を飲もうとして、先にマイクを持ち替えた。
人が増えたのを見たら、急に手元が気になった。
(ここでこぼすのは、やめてくれよ)
ふたをしっかり閉め、台へ戻す。
「最後は、大会でも歌った『帰り道』です」
通路の脇で、年配の男の人がうなずいた。
見覚えはなかったが、大会を聞いていた人なのかもしれない。
俺は最後の伴奏を待った。
今度は、歌い出すまで少し長い。
それでも、目の前の人は席を立たなかった。
手を膝へ置き、こちらを向いている。
一番の始まりを、小さめの声で入った。
サビへ近づくにつれ、声を広げる。
今日は、歌ったあとに結果発表があるわけではない。
この人たちが最後まで聞いてくれたら、それで嬉しい。
高い音を、まっすぐ伸ばした。
二番も、最後のサビも、途切れず歌えた。
終わりの声を落とし、伴奏が消えるまで待つ。
拍手が、前からも横からも聞こえた。
*
「ありがとうございました」
頭を下げたあと、マイクを下ろしかけて止めた。
まだ、一つあった。
「三時からも、ここで歌います。また聞きに来てください」
前の列の女の人が、笑ってうなずいた。
それを見てから、俺はもう一度礼をした。
舞台の横へ下りる。
足を着いたところで、倉田さんが時計を見せてくれた。
十九分ほどだった。
「お疲れさまです。時間、ちょうどよかったですよ」
「ありがとうございます」
マイクを返した。
四曲とも、歌えた。
息を吐いて客席のほうを見ると、宮田さんが椅子の位置を少し直していた。
立ち上がった客が、それぞれ売り場や通路へ戻っていく。
何人かは、まだ舞台の前で話していた。
俺は水筒を持ち、控え室へ行こうとした。
「すみません」
後ろから呼ばれ、振り返る。
曲名を言ったときに笑っていた、二人連れの女の人だった。
「三曲目って、もう一回歌いますか」
俺は、水筒を持ち直した。
「……はい。三時も、歌います」
「よかった。買い物終わったら、また来ようかって」
隣の人もうなずいている。
もう一回聞きたいと思ってもらえた。
返す言葉を考えている間に、二人は「楽しみにしてます」と言って通路へ向かった。
「ありがとうございます」
少し遅れて、声をかけた。
二人は振り返って、軽く手を上げてくれた。
俺も、小さく会釈した。
控え室へ戻ってから、時計を見た。
次は三時。
さっきまで、待っている時間が長そうだと思っていた。
今は、その二人が戻ってくるところを、早く見たかった。




