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第35話 通りすぎる前に、一曲目

 本番の日曜日は、朝から雨だった。


 窓を開けて確かめると、向かいの屋根から水が続けて落ちていた。


 歩いて行くつもりでいたが、バスの時間を調べた。


 片道二百二十円。


 シャツの裾を濡らして、着いてから乾かす方法を考えるより、そのほうがよかった。


 大会でも着た灰色のシャツを着て、鏡の前で襟を直す。


 バッグには、水筒とハンカチ、今日の曲順を書いた紙を入れた。昼飯のおにぎりと、歯磨きの道具も入れておく。


 スマホの充電は十分ある。


 長いケーブルを抜き、枕元へ置いた。


 買ったゲームでは、もう一つ工場を置けるようになっていた。


 入口をどちらへ向けるかだけ、確かめたくなった。


 時計を見る。


 閉じた。


 (どうせ、入口だけじゃ済まない)


 今日は十時半までに、施設へ行くことになっていた。


     *


 バスの窓に、細かい雨粒が流れていた。


 席に座り、膝の上でバッグを押さえる。


 十時を少し回ったところで、頭の中のゲームを開いた。


 実績の印がついていた。


【実績達成:累計1京キューブ生産】

【スキルポイント×12を受け取りました】

【所持スキルポイント:18】


 昨夜は、まだ届いていなかった。


 寝ている間に超えたらしい。


 履歴には、朝の四時台の達成時刻が残っていた。


 歌唱の欄を開く。


【歌唱 Lv.7 → Lv.8】

【必要スキルポイント:21】


 あと三点、という数字は変わらない。


 貯まった十八点を見ていると、もう使いたくなっていた。


 歌唱を上げたあとは、いつも、どんな声が出るか試すのが楽しみだった。今日の四曲をもう一段上で歌ったら、どうなるのか気になる。


 次の実績の条件も見たが、今から着くまでに届く数字ではなかった。


 画面を閉じる。


 先に、今日の一曲目を頭の中で流しておくことにした。


     *


 施設へ着いたのは、十時二十分頃だった。


 入口で傘を畳み、案内所に名前を伝える。


 宮田さんは広場にいた。


 机を動かしている人へ声をかけ、こちらに気づくと、手を上げた。


「久瀬さん、おはようございます。お足元の悪い中、ありがとうございます」


「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」


「こちらこそ。先に荷物を置いていただけますか」


 先日打ち合わせをした部屋へ案内された。


 今日はテーブルに紙コップと湯の入ったポットが置いてあった。壁際には、傘を立てられる箱もある。


 バッグと傘を置き、水筒だけ持って広場へ戻った。


 舞台は、大会のときより小さかった。


 前には椅子が二列。横には、雑貨を並べた机や、菓子の箱を積んだ台がある。


 開店したばかりで、買い物客はまだ少ない。それでも、入口からエスカレーターへ向かう人は、何人も通っていた。


「音を見てもらっている、倉田です」


 舞台の脇で、ケーブルをまとめていた男の人が顔を上げた。


 黒い服に、名札をつけている。


「久瀬です。お願いします」


「こちらこそ。じゃ、マイクを持って立ってみてもらえますか」


 渡されたマイクを受け取り、低い段を上がった。


     *


 声を出すと、舞台の足元のスピーカーからも、自分の声が聞こえた。


 客席へ向かう大きなスピーカーとは、別のものらしい。


「歌ってるご本人が、伴奏と声を聞くための音です。足りなければ言ってください」


「はい」


 倉田さんが、手元のつまみを動かす。


 『帰り道』のサビを短く歌った。


 伴奏が少し大きい気がしたので、それを伝える。もう一度歌うと、自分の言葉が聞き取りやすくなった。


「どうですか」


「こっちのほうが、歌いやすいです」


「では、これくらいで」


 声を止めたとき、通路で傘袋を持った人が、こちらを見ていた。


 目が合うと、軽くうなずいて歩いていった。


 今の短いところも、聞こえていたらしい。


 その人が向かった先を目で追った。十秒もしないうちに、菓子の台の向こうへ隠れた。


 ここを通るだけの人は、そのくらいで行ってしまう。


 俺は、曲順を書いた紙を見た。


     *


「……最初の曲を、変えてもいいですか」


 音の確認が終わってから、宮田さんと倉田さんへ聞いた。


「用意した四曲の中で、ですか」


「はい。『晴れたら遠回り』を、最初にしたいです」


 宮田さんが、手元の紙へ目を落とす。


「理由を伺ってもいいですか」


「前奏が短いので。通る人に、歌い始めを聞いてもらいやすいかと思って」


 『帰り道』を最初にしたのは、俺がいちばん慣れているからだった。


 でも、『晴れたら遠回り』も、もう何度か歌っている。八秒ほどで声を出せるし、最初の言葉から明るい。


 宮田さんは通路を見て、うなずいた。


「いいと思います。『帰り道』は、どこにしましょう」


「最後で、お願いします」


「それなら、前半と最後で雰囲気も変わりますね」


 倉田さんが、曲の番号を紙に書き直した。


 『晴れたら遠回り』。


 『四月の傘』。


 『駅まで五分』。


 最後が、『帰り道』。


 一時の回は、この順番になった。


 自分の紙にも同じ順で書き、倉田さんに見てもらう。


「はい。これで用意します。三時の回は、一回目が終わってからもう一度確認しましょう」


「ありがとうございます」


 宮田さんは、隣の机へ呼ばれてそちらへ向かった。


 俺は舞台を下りた。


 声を出すまでの八秒なら、さっきの人も、まだ前にいる。


 うまく聞いてもらえたら、もう少しここで足を止めてくれるかもしれなかった。


     *


 控え室で持ってきた昼飯を食べ、歯を磨いた。


 まだ少し時間がある。


 水筒を持ち、広場の手前まで見に行った。


 机には商品が並び、朝より人が増えていた。子供の手を引いた人が歩き、買った箱を袋へ入れている人もいる。


 俺の案内の前で、二人連れが立ち止まっていた。


 写真を見て、開始時刻を見ている。


 近くへ行く勇気はなかった。


 少し離れた柱のそばで、水を飲んだ。


 (そのまま、一時までいてくれないかな)


 二人は顔を見合わせ、椅子のほうを指さした。


 座るかどうかまでは見届けず、俺は控え室へ戻った。


 戻ってから、シャツの襟を一度触った。


 曲の順番は、もう覚えている。


 それでも、紙を広げて最初の曲名を確かめた。


 今度は、初めから聞いてくれる人も、少しはいそうだった。


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