第33話 歌っていないときの声
「声、戻ったよ」
藤崎さんに言われて、マイクを見た。
土曜日の午後一時。昨日と同じ店で、一時間の部屋を借りていた。
最初の『帰り道』を歌い終えて、次の曲名を言ったところだった。
「戻りましたか」
「うん。いつもの、厨房で何か聞いたときの久瀬くん」
言われてみると、少し小さかった気がした。
歌っているときは、マイクの位置も含めて音の大きさがわかる。話そうとすると、普段の声に戻してしまうらしい。
「もう少し、近くで話せばいいですか」
「たぶん。それと、下に向けないほうが聞こえるかも」
マイクを持ち直した。
「次は、『四月の傘』です」
「それくらいなら聞こえる」
藤崎さんがうなずいた。
近づけるだけで済むなら、助かる。
(歌い終わったあとまで、気が抜けないのか)
その位置を覚えてから、次の伴奏を始めた。
*
四曲が終わると、藤崎さんはストップウォッチを止めた。
「十九分ちょっと。拍手が長くても、まだ大丈夫そう」
「ありがとうございます」
「『駅まで五分』、いいね。相原さんが言ってたの、これか」
マイクを置こうとして、少し止まった。
「……返事、来ましたか」
「グループに書いてたよ。昨日の夜」
「はい。見ました」
見ていた。
俺が送ったのは個別のメッセージだったが、相原さんは三人のほうにも感想を書いてくれた。
サビへ入る前が好きだと言われて、そこを自分でも二回聞いた。
今も藤崎さんが褒めてくれたので、もう少し聞きたかった。
「最後、ちょっと笑ってたよね」
「……そうでしたか」
「うん。あの曲、歌ってて楽しい?」
「はい」
「見てても、そんな感じだった」
それは、よかった。
スマホの画面を伏せ、顔が見えないように少し水を飲んだ。
上手と言われるのも嬉しい。楽しそうだったと言われるのも、かなりよかった。
*
「じゃ、次は私」
藤崎さんが端末を引き寄せた。
選んだ曲は、俺も店で何度か聞いたことがあった。明るいけれど、サビの音が高い。
画面のキーは変えなかった。
「いつもは二つ下げるんだけど、一回、このまま歌ってみたくて」
「はい」
「今日は点数出ないし」
そう言って、ソファから立ち上がる。
俺は端末を机へ置いた。
藤崎さんの一行目は、はっきりしていた。大会で歌っていた曲より、言葉の切れ目が短い。本人もリズムに合わせて、マイクを持たない手を少し動かしていた。
サビに入る。
高いところで、声が少し細くなった。それでも、その先の言葉まで続けた。
二番の同じところでは、一度だけ声が裏返った。
藤崎さんは笑ったが、止めなかった。最後まで歌い、終わってから大きく息を吐く。
「たっかい」
俺は拍手をした。
「最初のサビ、出てました」
「ね。私も思った」
藤崎さんはうなずき、満足そうに座った。
「二番は欲張ったなあ。もう少し手前で吸えばよかった」
「もう一回、入れますか」
「いいの?」
「まだ時間あるので」
残りは二十分以上あった。
藤崎さんは水を飲んでから、同じ曲を予約した。
今度は、二番の高いところも途切れなかった。
歌い終わると、自分で小さく拳を握っていた。
俺も、もう一度拍手をした。
*
「久瀬くん、歌い終わったあとも一言あるといいかも」
休んでいると、藤崎さんが言った。
「次の曲名、以外ですか」
「そう。最後に、ありがとうございました、とか。一回目なら、三時も歌いますって」
「……ああ」
始めるときの名前は考えていた。
終わりは、礼をして降りればよい気がしていた。大会は司会の人が引き取ってくれたが、今度はそこも自分だった。
メモを開く。
ありがとうございました。
三時からも、ここで歌います。
それだけ書くと、藤崎さんが横から見た。
「本当に、そのまま書くんだ」
「忘れそうなので」
「まあ、あったほうが安心か」
うなずいてもらえた。
もう一行、よかったらまた、と書き足す。
読んでみると、少し誘い方が弱い気がした。
どうせなら、二回目も聞いてほしい。
また聞きに来てください、と直した。
「これ、言えばいいですか」
画面を見せると、藤崎さんは笑った。
「うん。言ってくれたら、三時に時間あるかなって考えると思う」
俺はマイクを持った。
下へ向けないようにして、書いたとおりに話してみた。
歌う前より、この二行のほうが、藤崎さんの顔を見づらかった。
*
部屋を出る前に、端末の履歴を確かめた。
四曲の名前とキー、長さをメモへ写す。
実際に使う音源の確認は、宮田さんへお願いする。歌いたい曲と順番は、これで伝えられそうだった。
会計は、一人七百二十円だった。
それぞれ払って店を出る。
「私、駅のほうだから」
「はい。ありがとうございました」
「こちらこそ。今日、あれ歌えてよかった」
藤崎さんは、さっき入れていた曲を口ずさみながら歩き出した。
俺も反対側へ向かった。
帰り道、ベンチのある小さな広場で座り、宮田さんへメールを書いた。
候補の四曲。キーは全部、原曲のまま。
最初は『帰り道』で、最後は『駅まで五分』。二回とも同じ内容を考えている、と付け加える。
曲の紹介まで、かっこいい言い方を探す必要はなかった。聞かれたことを、順に並べる。
最後に、伴奏の長さが違う場合は教えてください、と書いて送った。
締め切りは明日だ。
間に合った。
立ち上がり、肩にバッグをかける。
歩き始めてから、さっきの挨拶を頭の中でなぞった。
名前と曲名は、言える。
また聞きに来てください、も、たぶん言える。
あとは本当に来てくれたら、かなり嬉しいと思った。




