第32話 四曲なら、まだ入る
金曜日の午後二時。
借りた部屋へ入り、机に水とスマホを置いた。
今日は客なので、エプロンはない。飲み物のグラスが空いても、自分のものだけ気にしていればよかった。
画面には、残り九十分と出ている。
俺は選曲用の端末を手前へ寄せた。
『駅まで五分』。
相原さんが、俺の声で聞いてみたいと言っていた曲だ。
何度も聞いている。歩いているときにこれが流れると、少し足が速くなる。ただ、歌うと途中で言葉がもつれそうで、今まで入れたことはなかった。
原曲のキーで予約する。
短い前奏のあと、軽いドラムに合わせて歌い始めた。
一行目を歌ったところで、口が自然に次の形を作った。
早口に聞こえていたところも、全部を急ぐ必要はなかった。短く切るところがわかる。そこを揃えると、次の言葉を落ち着いて出せた。
伴奏の拍に、声がうまく乗った。
気持ちいい。
立ち上がり、机の横へ出た。
サビは高い。けれど、高さを気にして待ち構えなくても、手前の言葉からそのまま続けられる。
いつもの自分の声で、最後まで歌った。
画面が次の曲を待つ表示へ戻る。
もう一度、予約した。
(これは相原さんにも聞かせたい)
二回目は、スマホで録音しておくことにした。
*
二回歌っても、喉は楽だった。
水を飲み、録音を短く聞く。
机の上に置いたので、伴奏もかなり入っている。それでも、言葉はちゃんと聞き取れた。
自分が今どこを歌っているのか知っているせいかもしれないと思って、目を閉じて聞いてみた。
声の終わりが、次のドラムへきれいにつながった。
俺はそこだけ少し戻した。
今の歌唱なら、好きな曲をこんなふうに歌える。
画面に出ている数字を上げたときも嬉しかったが、まだ試していない曲があるほうが、今は気になる。
もう一度録音を始め、『晴れたら遠回り』も入れてみた。
こちらは前奏が短く、明るい声で始まる曲だ。歌詞が出るのを待ちすぎて、最初だけ少し慌てた。
次の行からは合った。
高い音を長く伸ばすところで、部屋の奥まで声が届く。張り上げなくても、響きが残るのがわかった。
最後の一音を伸ばし終え、マイクを下ろす。
隣の空いたソファを見た。
一人で来たので、何も返ってはこない。
当然なのに、少し物足りなかった。
(今のは、誰かいてもよかったな)
自分で拍手をするのも変だったので、録音を保存した。
*
『四月の傘』は、椅子に座って歌い始めた。
前の二曲と違い、伴奏の音が少ない。
声を弱くすると、細く消えてしまいそうだったところも、今日は途切れず続いた。小さく歌っても、言葉の終わりが残る。
二番に入ってから、目を画面へ近づけた。
ここは、こんな言葉だったのか。
サビばかり繰り返し聞いていたので、途中の歌詞はうろ覚えだった。音だけで覚えていたところに、意味がつながる。
もう一度歌うときは、その一行を少し柔らかくしてみた。
自分には、そのほうが好きだった。
メモに、残す、と書いた。
『帰り道』も歌い、四つの曲名を並べる。
候補に入れていたもう一曲は、五分以上あった。全部を足すと、歌っている時間だけで二十分を超える。
四曲なら、十六分十秒。
曲名の隣にそれぞれの長さを書き、端末を置いた。
四曲の長さは、これでよさそうだった。主催側が使う伴奏でも同じか、あとで確かめてもらおう。
*
曲順は、『帰り道』を最初にした。
いちばん歌っている曲だ。始まる前に緊張していても、これなら声を出せると思った。
そのあとに『四月の傘』。残り二曲は、明るい順番で終わるように並べる。
四曲とも端末へ入れ、スマホの時計を用意した。
宮田さんは、曲の間に短く話せばいいと言っていた。
名前と曲名くらいなら言える。
マイクを持った。
「久瀬凪です。今日は、よろしくお願いします」
自分の声が、部屋に流れた。
誰もいないのに、少し恥ずかしかった。
そのまま一曲目を始める。
歌は、さっきと同じように出た。
困ったのは終わったあとだった。
「……次は、『四月の傘』です」
曲名を言ったら、することがなくなった。
自分で伴奏を始めるから、間を取らなければすぐに歌える。でも、本番では拍手もあるかもしれない。音響の人がボタンを押すまで、何を見て待てばいいのだろう。
とりあえず三秒待った。
テレビで見る歌手は、こういうところでも何か話している。
(あの人たち、歌以外も結構やってるな)
次の伴奏を流した。
*
四曲を続けて歌い終え、時計を止めた。
十八分を少し超えていた。
途中で水を飲み、曲名も言った。それでも、二十分には余裕がある。
歌い足りないくらいだった。
最後に入れた『駅まで五分』のリズムがまだ残っていて、座ってからも、足先が少し動いていた。
スマホを持ち上げる。
藤崎さんから、明日は一時からなら一時間空いていると返事が来ていた。
『お願いしてもいいですか。四曲、通して聞いてほしいです』
送ってから、もう一つ書き足す。
『藤崎さんも歌う時間、あります』
俺の四曲を聞いて帰るだけでは、カラオケに来てもらうのに悪い。
それに、藤崎さんが次は何を歌うのかも気になっていた。
すぐに返事が来た。
『じゃあ私も歌いたいの持ってく!』
俺は、明日の一時間を予約した。
残り時間を見てから、『駅まで五分』をもう一度入れる。
今度は最後のところを、少しだけ変えてみたかった。
*
会計は、千八十円だった。
払ってから、スマホのメモへ金額を入れる。
出演するための練習代だ。二万円からどのくらい残るのか、一応は知っておきたい。
店を出ると、明るい西日が歩道に当たっていた。
相原さんへ、一曲だけ録音を送っていいか聞いた。
『もちろん。帰りに聞くよ』
『駅まで五分』の、二回目に録ったものを送る。
短く、今日初めて歌ったことも伝えた。
スマホをしまって歩き出したが、交差点の手前で、また通知を確かめてしまった。
まだ返事はなかった。
仕事中だと知っているのに、気になっていた。
(帰りに聞くって、今読んだだろ)
次の角までは、ポケットから出さないことにした。




