第3話 応募理由は百文字以内
目覚ましを止めて、もう一度目を閉じた。
八時間は寝たはずなのに、まだ眠い。布団から出る前に、昨日のゲームが残っているかだけ確かめようと思った。
【所持キューブ:1,876,996,284】
俺は起きた。
枕元のスマホを手に取り、時刻を見た。昼前だ。八時間で合っている。
数字を、右から区切り直す。
十八億。
寝る前の設備が毎秒六万四千六十四個で、八時間なら、その間だけで十八億四千五百万ほど増える。ちゃんと計算も合っていた。
これは、起きるのが楽しみになる。
もう少し寝ていても増えるが、今買い物をすれば、さらに速くなる。二度寝より魅力的なことがある朝は、珍しかった。
累計は十九億を超えており、実績が二つ、未受け取りになっていた。
【累計100,000,000キューブ生産:4ポイント】
【累計1,000,000,000キューブ生産:5ポイント】
合わせて九点。寝る前には高かった八点の強化が、買える。
【基礎生産倍率 ×2 → ×4】
【必要スキルポイント:8】
歌唱も見た。三から四に上げるのが三点、四から五が五点。同じ八点で、二段階上がるらしい。
今でも、昨日まで出なかった音が出る。
そこから二段階。
少し迷ったが、今回は倍率を選んだ。大会まで三週間ある。先に生産を増やせば、歌も、ほかの技能も上げやすくなる。
料理の欄が目に入ったところで、お腹が鳴った。
そっちもいつか欲しい。まずは、元手を増やそう。
【生産速度:128,128/秒】
そのまま設備の一覧を開き、組立ラインを二本追加した。八千万、その次が三億二千万。値段は四倍ずつになるらしい。
四本目は十二億八千万だった。
まだ買える。ただ、その下にある改良のほうがよさそうだ。
【搬送経路の改良:300,000,000】
【すべての組立ラインの生産量 ×2】
三本とも倍になるなら、今はこっちだ。改良を買い、増え方を眺める。
四本目には少し足りなくなったが、三、四分で届く。俺は布団から出て、朝食を作りに立った。
十一時半を過ぎている。
昼食かもしれないが、寝起きなのでパンが食べたかった。
*
卵を焼き、パンを皿へ移す頃には、四本目のラインも買えた。
【生産速度:688,128/秒】
次は合成ユニット。百億キューブあれば、一つで今の設備全部より速く作れる。
途中で次のラインを買うと五十一億二千万使うので、今回は百億まで待とう。次に触る頃合いを確認して、ゲームを閉じた。
スマホには、昨夜の返信が残っていた。
『大会、出てみようと思います』
これを送るだけだ。
起きたばかりの勢いで押そうとしたが、少し止まった。語尾を変えれば押しやすくなる気がして、文を読み直す。
(いや、何て書いても出ることには変わりない)
そのまま送った。
パンを一口かじったところで、返信が来た。
『ほんと? よかった!』
続けて、もう一件。
『今日休みだよね。三時から練習するんだけど、一緒にどう?』
俺は口の中のパンを飲み込んだ。
もう歌えるのか。
藤崎さんも今日は休みで、いつもの店を二時間使うらしい。四時からは、昨年の大会で知り合った相原さんも合流する、と書いてあった。
知らない人が一人増えた。
すぐに返そうとしていた指が、また止まる。どんな人なんだろう。藤崎さんと同じように歌がうまい人なら、目の前で歌うのは、少し緊張する。
でも、藤崎さんたちが普段どう練習しているのかは見たかった。昨日の曲も、もう一度ちゃんと歌いたい。
『大丈夫です。お願いします』
送ると、集合場所と時間が返ってきた。
これで終わりだろうか。何かスタンプを返したほうがいいのか、少し迷う。返事一つに時間をかけているうちに、卵が冷めてきた。
(もういい、食べる。スタンプ一個で卵を冷ますな)
食後に店のシフトを確認すると、大会の日は、まだ勤務を決める前だった。予選と本選の二日分、希望休を出す。
理由の欄に、歌唱コンテスト、と入力した。
店長に読まれるのだと思うと、ちょっと照れる。用事、と書き直そうか迷ったが、昨日の歌を聞いている人だ。今さら隠すことでもなかった。
しばらくして、『了解。藤崎さんと同じ日ね』と返ってきた。
休みも取れた。
スマホの画面を見ながら、膝の上で指を一度握った。歌唱コンテストに出るための予定が、もう二つもできている。
*
待ち合わせの十五分前に店へ着くと、藤崎さんはもうフロントにいた。
今日はエプロンをしていない。薄い青のシャツ姿で、カウンターの外から受付の店員さんと話していた。
俺も客用の列へ並ぶ。
「久瀬くん、こっち」
手招きされて、近づいた。
「二時間でいいよね? 相原くんは、一時間だけ。部屋代は人数と時間で分けよ。飲み物はそれぞれで」
「はい」
財布は、ちゃんと持ってきた。
二時間分なら大丈夫だ。頭の中には億単位の数字があるが、こっちの支払いは別なので、家を出る前に確かめておいた。
部屋が空くまで、入り口近くのベンチで待つことになった。
「応募、もうした?」
「まだです。曲は決めました」
「『帰り道』?」
「はい」
「いいと思う。私、まだ二曲で迷ってるんだよね」
藤崎さんがスマホの画面を見せてくれた。片方はゆっくりした曲で、もう片方はサビが高くなる、店でもよく聞く曲だった。
「こっち、歌えるとかっこいいんだけど、後半がきつくて」
「去年も、これですか」
「ううん。去年も高い曲だったけどね。途中で息が足りなくなっちゃった」
藤崎さんは、首のあたりへ手を当てた。
「練習だと最後までいけたんだよ。本番だと力んじゃって。マイクも、こんなに握ってたし」
両手に力を入れてみせる。
昨日の俺も、似たような持ち方をしていた。あのまま人が増えたら、もっと強く握ってしまう気がする。
「今年は本選まで行きたいな。予選で帰ると、次の週はお客さんになるから」
藤崎さんは笑った。でも、手元の候補曲を、もう一度見ていた。
去年から、また出ようと考えていたのだ。
俺は昨日歌えるようになって、それで誘ってもらった。藤崎さんがこの店へ練習に来たのは、きっと今日だけではない。
どんな曲を選ぶのか、ちゃんと聞きたいと思った。
「……俺も、申し込みます」
「うん。わかんないところあったら聞いて」
応募フォームを開き、名前と連絡先を入れる。
表示名は、本名でも別名でもよかった。別名なら、知っている人に見つかりにくいかもしれない。
何か考えようとして、会場でその名前を呼ばれるところを想像した。
まず、自分の番だと気づける自信がない。
久瀬凪、と入力した。
曲は『帰り道』。キーは原曲と同じ。会場が用意するカラオケ音源で歌うので、自分で伴奏を持っていく必要はないらしい。
そこまでは、すぐ埋まった。
【応募理由・ひとこと 百文字以内】
俺は隣を見た。
「……ここも、読まれますか」
「どうだろ。去年は司会の人が少し紹介してたよ。全部じゃなかったけど」
聞いておいてよかった。
賞金が欲しいです、と書くのはやめよう。会場で紹介されてから登場する勇気はない。
「好きな曲だから、でいいんじゃない?」
「それでいいんですか」
「だって、そうでしょ」
好きな曲なのは、本当だ。
あの高いところを、会場でもちゃんと歌いたい。うまくいって、賞金ももらえたら嬉しい。
『好きな曲なので、人前でも最後まで歌ってみたいです』
書いて、藤崎さんに見せる。
「いいじゃん」
百文字にはかなり足りないが、無理に増やすことでもない。確認画面へ進み、名前と曲名を読み直した。
撮影や会場での紹介についての説明も読み、必要なところへチェックを入れる。
あとは、送信だけだった。
指が止まる。
隣で藤崎さんが水筒のふたを閉めた。急かされなかったので、もう一度だけ名前を見てから、ボタンを押した。
【お申し込みを受け付けました】
確認のメールが、すぐに届いた。
受付番号の下に、久瀬凪と書いてある。曲も『帰り道』で合っていた。
「終わりました」
「お、早いね。私、初めてのとき確認画面からしばらく動けなかったよ」
俺も止まった。
ただ、藤崎さんが水筒をしまっている間に押せたので、そうは見えなかったらしい。
「当日、よろしくね」
「……こちらこそ」
短く答えて、メールをもう一度開いた。
送れた。
急にやることが増えて、落ち着かない。でも、もう少ししたら、さっきまで我慢していた歌が歌える。
フロントから名前を呼ばれ、藤崎さんと立ち上がった。
「三番だって。久瀬くん、飲み物何にする?」
「水で」
「練習中は私もそう。声のこと考えると無難だよね」
(無料だからです)
訂正すると、せっかく喉を大事にしていると思ってもらえたのに、金の話になる。
水は水だ。このまま喉も大事にしよう。
俺は藤崎さんについて廊下を歩いた。




