第2話 寝る前に買うもの
アパートの階段で、また歌いそうになった。
店を出てから二十分ほど。頭の中では、さっきの曲が何度もサビに入っている。今ならこの先も歌える、とわかっているのがよくなかった。
もう午前三時だ。廊下に人はいなくても、隣の部屋にはいる。
口を閉じたまま鍵を開け、六畳の部屋に入った。
電気をつけると、畳んでいない洗濯物が目に入る。壁際に寄せた布団、低いテーブル、昨日のマグカップ。出勤前と何も変わっていない。
上着を脱いで手を洗い、床へ座った。
店では藤崎さんたちがいて、帰り道では車の音がしていた。一人の部屋で考えると、あの画面が出てくることは、やっぱり少し怖い。
カーテンを閉めてから、そっと数字を思い浮かべた。
【所持キューブ:6,335,996】
【生産速度:2,032/秒】
出てきた。
六百万を超えている。店で百万の報酬をもらってから、着替えて、歌って、帰ってきた間も、ずっと作っていたらしい。
数字の向こうにテーブルが見えた。もう少し上にできないだろうかと思うと、表示が動く。膝に視線を落としても、邪魔にならなくなった。
スマホのカメラを開き、目の前を撮ってみた。
写真に写ったのは、テーブルと脱いだ上着だけだった。
カメラには写らない。誰かに直接見えるかどうかは、これではわからないが、店でも何も言われなかった。
さっきの歌も聞いてもらえたし、俺が目の前に何か出しているようには、見えていなかったのだと思う。
元のゲームのページも確かめた。
【引き継ぎが完了しました】
スマホは相変わらずだ。戻るボタンを押しても、同じページに戻ってくる。
これ以上どう調べればいいのかわからず、両方の画面を閉じた。
喉に手を当ててみる。
声は、確かに出た。思い出すと、今も少し嬉しくなる。
眠って起きたら、歌えなくなっているのだろうか。ゲームごと消えてしまうのも惜しい。
さっきまで出すのが怖かったくせに、もうそこを心配していた。
とりあえず、シャワーを浴びることにした。
*
着替えて戻る頃には、七百五十万を超えていた。
顔にお湯を浴びて、体を拭いているうちに、いくらか落ち着いた。普通に眠くもなっている。もう一度呼び出した画面にも、さっきほど身構えずに済んだ。
店で十万の設備を買ったときには、ずいぶん貯めたと思った。それが今は、一分もしないで増える。
ここまで来ると、何も買わずに寝るのはもったいない。
俺はテーブルに肘をつき、設備の一覧を開いた。
店で買った設備の名前は、生成炉だった。
【生成炉】
【次の購入価格:200,000】
【一基あたりの生産量:2,000/秒】
最初の一基は十万だったので、次は倍らしい。個別に買った改良は、同じ種類の炉すべてに効いている。
二基目を買った。次は四十万。その次は八十万。
今の残高なら、まだいける。
百六十万、三百二十万と追加して、生成炉が六基になった。
【生産速度:12,032/秒】
いいな、これ。
一つ買うたびに増え方が変わる。残高が減った直後から、さっきより早く取り戻していく。六百二十万も使ったのに、かなり得をした気分だった。
七基目は、六百四十万。
(高っ。一基で、さっきの五基全部より高いのか)
そろそろ別の設備と比べよう。
【組立ライン】
【購入価格:20,000,000】
【生産量:20,000/秒】
生成炉十基分だ。
二千万あれば買える。今の速さなら、あと二十六分くらいだろうか。
途中で炉を追加した場合も考えてみたが、そのために使う六百四十万が大きい。今回は、何も買わずに待つほうが早かった。
買えるものを我慢すると、先に大きいものが手に入る。
それがちゃんと計算でわかると、待つ間も楽しい。組立ラインが動き始めたら、どのくらい速くなるだろう。
毎回こんなふうに考えるから、寝るのが遅くなるんだけど。
実績の欄にも、次の目標が出ていた。
【累計10,000,000キューブ生産】
【報酬:スキルポイント×3】
設備を買っても、累計は減っていなかった。作った分は全部数えてくれるらしい。
あと三分ほどで、三点もらえる。
倍率が買える。
俺はすぐに立ち上がり、布団を敷いた。マグカップも流しへ持っていく。数字をずっと見ていると三分が長いので、先に寝る準備を済ませたかった。
洗い物を終えたところで、通知が届く。
【実績達成:累計10,000,000キューブ生産】
【スキルポイントを3獲得しました】
待っていた。
【基礎生産倍率 ×2】
【必要スキルポイント:3】
今度は歌唱を開かず、そのまま購入した。
【生産速度:24,064/秒】
「……よし」
買ってから、念のため歌唱も確認する。レベルは三のままだった。
ちゃんと、両方ある。
さっきは歌を選んでよかった。帰ってきたら、倍率まで買えてしまった。今かなり調子に乗っていると思うが、部屋には誰もいないので困らない。
組立ラインまでの待ち時間は、十一分ほどに減っていた。
これを買ってから寝よう。
そこまでは、もう決定でいい。
*
待っている間に、藤崎さんから届いた募集ページを開いた。
ステーションスクエア歌唱コンテスト。駅前の商業施設が主催する、応募無料の大会だった。
予選は三週間後で、本選はその一週間後。募集人数は六十人。そのうち十二人が、本選に進めるらしい。
写真のステージの前には、椅子が何列もある。
ここで歌うのか。
急に、さっきまでの勢いが弱くなった。
六十人もいれば、ずっとうまい人もいるだろう。店で歌えたのは嬉しかったけれど、それで大会に出ていいのかと考えてしまう。
しかも駅前だ。バイト先で会う客が見ている可能性もある。
客席の写真を拡大した。
全部埋まるとは限らない。でも、誰もいなかったら、それはそれで寂しいかもしれない。
自分でも面倒くさいと思う。聞いてほしいのか、見ないでほしいのか、もう少しはっきりしてくれ。
座椅子に寄りかかり、当日の流れを読んだ。
予選は一人一コーラス。曲の最初から、一番が終わるところまでを歌う形式だった。
曲の候補一覧を開く。
『帰り道』
あった。
中学生の頃から好きで、今日ようやく歌い切れた曲だ。
さっきサビに入ったとき、店長たちはどんなふうに聞いていたのだろう。自分では嬉しくて、画面しか見ていなかった。
続きが聞きたい、と藤崎さんは言ってくれた。
あれは、もう一度言われたい。
曲名を押して、応募フォームへ進んだ。
名前と連絡先などを入れる欄がある。まず必要なものだけ確認して、ページをそのまま残した。大会の日に休めるかは、店長へ聞いておかなくてはいけない。
藤崎さんへの返信欄を開き、短く打つ。
『大会、出てみようと思います』
句点を付けたり消したりしてから、画面の時刻に気づいた。
もう午前三時半に近い。
俺はさっきシャワーを浴びたばかりだが、藤崎さんは寝ているかもしれない。
書いた文を残し、スマホを置いた。
朝になってから送ればいい。文はもうできたので、明日の俺は押すだけで済む。
(頼むぞ。送信を押すだけだからな)
*
ゲームへ戻ると、二千万を超えていた。
組立ラインを一つ購入する。
新しい設備にも恒久倍率がかかり、初めから二倍で動き始めた。
【生産速度:64,064/秒】
昨日、最初の十個を手で作っていたことを思い出した。
あのときの自分へ見せたら、しばらく寝なくなると思う。
次の組立ラインは八千万。その先も見たかったが、時計を見てやめた。布団は敷いてあるし、今日はもう十分進んだ。
最後に、恒久倍率の次の値段だけ見る。
【基礎生産倍率 ×2 → ×4】
【必要スキルポイント:8】
八点か。
すぐには買えないが、設備が増えれば効果も大きくなる。次の実績も見ようとして、画面を閉じた。
値段を見に行っただけなのに、もう続きを考えている。今度こそ寝よう。
スマホの目覚ましを八時間後に合わせた。
いつものゲームからも、工場完成の通知が来ていた。そちらは普通にタップして報酬を受け取る。もう一つ建てられそうだったが、今日は閉じた。
二つ分の工場の面倒を見ていたら、朝になる。
電気を消して、布団へ入った。目の前のゲームも閉じると、カーテンの隙間から入る街灯の明かりだけになった。
歌を口ずさみたくなったが、隣の部屋を思い出して我慢する。
明日、藤崎さんへ返信したら、また歌える機会があるかもしれない。
寝返りを打ち、布団を肩まで引き上げた。
次は、いつ歌おう。




