第28話 この声で、最後まで
番号札を外し、バッグへ入れた。
係員にマイクを渡され、受け取った手に少し力が入る。
先週と同じ階段だった。
低い一段を上がり、中央の印へ進む。
顔を上げたとき、客席の右側に藤崎さんが見えた。俺のスマホを持っている。隣の相原さんは、こちらを向いて小さくうなずいた。
その少し後ろに、見覚えのある女性がいた。
三日前、店で飲み物を運んだときに声をかけてくれた人だった。
(来てくれたのか)
そう気づいたところで、司会の人が俺の名前を呼んだ。
「続いては、久瀬凪さん。予選に続いて『帰り道』を歌っていただきます」
軽く頭を下げる。
女性も、連れの人も、こちらを見ていた。
今日は通りかかっただけではなく、この時間に来てくれたのかもしれない。
そうだったら嬉しい。
マイクを少し持ち直した。
「ご準備はよろしいですか」
「……はい」
返してから、前を向く。
今、出す声はわかっていた。
前奏が始まった。
*
一番の出だしを、少し柔らかい声にした。
音を小さく隠すのではなく、言葉を近くで渡すように歌う。
マイクを通った自分の声が、広い場所へ響いた。
昨日の部屋とは違う。
伴奏の聞こえ方も、声が戻ってくる感じも違ったが、出したかった響きはそのまま出ていた。
二行目へ進む。
声を少しだけ明るくすると、同じくらいの高さでも、次の言葉が前へ出る。
気持ちよかった。
最初から強くしなくても、ちゃんと聞こえる声だった。
客席へ目を向ける。
後ろのほうで、買い物袋を足元へ置いた人がいた。通路を歩いていた二人も、少し離れたところで止まっていた。
そのまま、一番のサビへ進んだ。
声を広げる。
高い音が、無理なく出た。
長く伸ばしても、最後まで同じ響きを残せる。そこで少しだけ細くし、次の言葉へつなぐ。
中学生のとき、ここで笑ってごまかした。
今日は、その次の声まで楽しみにしていた。
どこで息を吸えばいいかもわかる。
前の音を急いで切らず、伴奏の間へ息を入れた。
静かな終わり方で、一番を終える。
藤崎さんがこちらを見ていた。
相原さんの手が膝の上で、小さく動いている。
先週なら、ここで歌い終わっていた。
今日は、まだある。
*
二番は、一番より少し話すような声で始めた。
覚えている歌詞なのに、声を変えると、自分でも言葉の聞こえ方が変わる。
細かい言葉を急がず、行の最後を長めに残す。
次の伴奏が入るまで、声を全部引っ込めなくてもよかった。
藤崎さんが、わずかに顔を上げた。
ここは四日前の練習から、また変わったところだ。
気づいてくれただろうか。
そう思ったら、少しだけ嬉しくなった。
今、顔を見て考えすぎないようにしよう。
次の声を出す。
ゆっくり強くしても、途中の音が急に大きくならない。自分で思っているより細かいところまで、声を選べていた。
二番のサビは、一番と同じ強さから少し先まで出した。
まだ余裕があった。
響きが広がり、通路の向こうまで届いた感じがした。
上の階の手すりに、何人かの人がいる。
見上げた一瞬、こちらへ顔を向けている人と目が合った気がした。
すぐに前へ戻す。
あそこでも、聞いている人がいた。
そのことが気になっても、次の音はちゃんと出た。
隠したくなるような声ではなかった。
もっと、聞いてほしかった。
*
長い間奏に入った。
マイクを少し下ろし、伴奏を聞く。
相原さんにギターを弾いてもらったときは、隣から合図をもらった。
今日は、決まった音が次を教えてくれる。
いつ入るかを探し回らなくても、もうわかっていた。
息を吸う。
最後のサビへ入った。
一番からずっと、ここを歌いたかった。
明るくした響きを、そのまま高い音まで持っていく。
喉を締めなくても、声は十分に強かった。長く伸ばしたあとにも、次の言葉をはっきり出せる。
まだ歌っていられる。
息が続くというだけではなく、次をどんな声にするか、ちゃんと考えられる余裕があった。
繰り返す言葉を、さっきより少し強くした。
伴奏も大きくなる。
気持ちよく声が重なった。
好きな曲だった。
何度も聞いて、何度も途中だけ口ずさんでいた曲だった。
今日は、自分の声でここまで続いている。
最後の言葉へ進んだ。
すぐに音量を落とさず、まず響きを柔らかくする。そのあとから、ゆっくり細くした。
言葉の終わりまで、音が残った。
最後の伴奏を聞く。
声を出し終えても、すぐにはマイクを下ろさなかった。
自分でも、今の終わりを聞いていたかった。
音が消えた。
一つ、拍手が聞こえた。
そのあとから、いくつも重なった。
*
顔を上げると、前の席の人たちが手を叩いていた。
立ち止まっていた人も、その場で拍手している。
俺は頭を下げた。
戻した顔が、少し熱かった。
嬉しい。
今の声を、聞いてもらえた。
マイクを下ろしかけたところで、司会の人が近づいてきた。
「ありがとうございました。素敵な一曲でしたね」
そうだった。
まだ、ここで終わりではない。
俺はマイクを持ち直した。
「歌い終えて、いかがですか」
右側の客席へ、少しだけ目を向けた。
藤崎さんも相原さんも、こちらを見ていた。
まだ録音しているらしい。
何を答えるか考えるより先に、口が動いた。
「……もう一回、歌いたいです」
司会の人が笑った。
客席でも、小さく笑い声がした。
もう一回。
言い方を、少し間違えた。
「やり直したいという、意味ではなくて」
付け足すと、司会の人はうなずいてくれた。
「まだ歌っていたいくらい、楽しかった?」
「……はい」
そのとおりだった。
(最初から、そう言えばよかった)
「また聞きたくなる歌でした。ありがとうございました」
もう一度、拍手が起きた。
俺は礼を言ってから、舞台の右へ戻った。
*
マイクを返し、バッグから番号札を出して首へ戻す。
水を飲もうとしたが、早く二人のところへ戻りたくて、ふたを開ける前に歩き出した。
客席の右へ回ると、相原さんが立って場所を空けてくれた。
「よかった。最後、すごかったね」
「……ありがとうございます」
藤崎さんも顔を上げた。
「二番の声、変えた?」
気づいていた。
俺は、少し早くうなずいた。
「昨日、少し」
「あそこ好き。近くで聞いてる感じがした」
昨日使った十三点のことが、頭に浮かんだ。
買ってよかった。
俺も気に入ったところを、ちゃんと好きだと言ってもらえた。
スマホを返してもらい、保存された録音を見る。
本選の一曲が、入っていた。
(今すぐ聞きたい)
けれど、舞台では十一番の人が紹介されていた。
俺は画面を消し、バッグへしまった。
今日はもう少し、ほかの人の歌も聞きたかった。
そのあとに、結果が出る。
拍手の音を思い出している間も、そのことだけは忘れなかった。




