↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
28/174

第28話 この声で、最後まで

 番号札を外し、バッグへ入れた。


 係員にマイクを渡され、受け取った手に少し力が入る。


 先週と同じ階段だった。


 低い一段を上がり、中央の印へ進む。


 顔を上げたとき、客席の右側に藤崎さんが見えた。俺のスマホを持っている。隣の相原さんは、こちらを向いて小さくうなずいた。


 その少し後ろに、見覚えのある女性がいた。


 三日前、店で飲み物を運んだときに声をかけてくれた人だった。


 (来てくれたのか)


 そう気づいたところで、司会の人が俺の名前を呼んだ。


「続いては、久瀬凪さん。予選に続いて『帰り道』を歌っていただきます」


 軽く頭を下げる。


 女性も、連れの人も、こちらを見ていた。


 今日は通りかかっただけではなく、この時間に来てくれたのかもしれない。


 そうだったら嬉しい。


 マイクを少し持ち直した。


「ご準備はよろしいですか」


「……はい」


 返してから、前を向く。


 今、出す声はわかっていた。


 前奏が始まった。


     *


 一番の出だしを、少し柔らかい声にした。


 音を小さく隠すのではなく、言葉を近くで渡すように歌う。


 マイクを通った自分の声が、広い場所へ響いた。


 昨日の部屋とは違う。


 伴奏の聞こえ方も、声が戻ってくる感じも違ったが、出したかった響きはそのまま出ていた。


 二行目へ進む。


 声を少しだけ明るくすると、同じくらいの高さでも、次の言葉が前へ出る。


 気持ちよかった。


 最初から強くしなくても、ちゃんと聞こえる声だった。


 客席へ目を向ける。


 後ろのほうで、買い物袋を足元へ置いた人がいた。通路を歩いていた二人も、少し離れたところで止まっていた。


 そのまま、一番のサビへ進んだ。


 声を広げる。


 高い音が、無理なく出た。


 長く伸ばしても、最後まで同じ響きを残せる。そこで少しだけ細くし、次の言葉へつなぐ。


 中学生のとき、ここで笑ってごまかした。


 今日は、その次の声まで楽しみにしていた。


 どこで息を吸えばいいかもわかる。


 前の音を急いで切らず、伴奏の間へ息を入れた。


 静かな終わり方で、一番を終える。


 藤崎さんがこちらを見ていた。


 相原さんの手が膝の上で、小さく動いている。


 先週なら、ここで歌い終わっていた。


 今日は、まだある。


     *


 二番は、一番より少し話すような声で始めた。


 覚えている歌詞なのに、声を変えると、自分でも言葉の聞こえ方が変わる。


 細かい言葉を急がず、行の最後を長めに残す。


 次の伴奏が入るまで、声を全部引っ込めなくてもよかった。


 藤崎さんが、わずかに顔を上げた。


 ここは四日前の練習から、また変わったところだ。


 気づいてくれただろうか。


 そう思ったら、少しだけ嬉しくなった。


 今、顔を見て考えすぎないようにしよう。


 次の声を出す。


 ゆっくり強くしても、途中の音が急に大きくならない。自分で思っているより細かいところまで、声を選べていた。


 二番のサビは、一番と同じ強さから少し先まで出した。


 まだ余裕があった。


 響きが広がり、通路の向こうまで届いた感じがした。


 上の階の手すりに、何人かの人がいる。


 見上げた一瞬、こちらへ顔を向けている人と目が合った気がした。


 すぐに前へ戻す。


 あそこでも、聞いている人がいた。


 そのことが気になっても、次の音はちゃんと出た。


 隠したくなるような声ではなかった。


 もっと、聞いてほしかった。


     *


 長い間奏に入った。


 マイクを少し下ろし、伴奏を聞く。


 相原さんにギターを弾いてもらったときは、隣から合図をもらった。


 今日は、決まった音が次を教えてくれる。


 いつ入るかを探し回らなくても、もうわかっていた。


 息を吸う。


 最後のサビへ入った。


 一番からずっと、ここを歌いたかった。


 明るくした響きを、そのまま高い音まで持っていく。


 喉を締めなくても、声は十分に強かった。長く伸ばしたあとにも、次の言葉をはっきり出せる。


 まだ歌っていられる。


 息が続くというだけではなく、次をどんな声にするか、ちゃんと考えられる余裕があった。


 繰り返す言葉を、さっきより少し強くした。


 伴奏も大きくなる。


 気持ちよく声が重なった。


 好きな曲だった。


 何度も聞いて、何度も途中だけ口ずさんでいた曲だった。


 今日は、自分の声でここまで続いている。


 最後の言葉へ進んだ。


 すぐに音量を落とさず、まず響きを柔らかくする。そのあとから、ゆっくり細くした。


 言葉の終わりまで、音が残った。


 最後の伴奏を聞く。


 声を出し終えても、すぐにはマイクを下ろさなかった。


 自分でも、今の終わりを聞いていたかった。


 音が消えた。


 一つ、拍手が聞こえた。


 そのあとから、いくつも重なった。


     *


 顔を上げると、前の席の人たちが手を叩いていた。


 立ち止まっていた人も、その場で拍手している。


 俺は頭を下げた。


 戻した顔が、少し熱かった。


 嬉しい。


 今の声を、聞いてもらえた。


 マイクを下ろしかけたところで、司会の人が近づいてきた。


「ありがとうございました。素敵な一曲でしたね」


 そうだった。


 まだ、ここで終わりではない。


 俺はマイクを持ち直した。


「歌い終えて、いかがですか」


 右側の客席へ、少しだけ目を向けた。


 藤崎さんも相原さんも、こちらを見ていた。


 まだ録音しているらしい。


 何を答えるか考えるより先に、口が動いた。


「……もう一回、歌いたいです」


 司会の人が笑った。


 客席でも、小さく笑い声がした。


 もう一回。


 言い方を、少し間違えた。


「やり直したいという、意味ではなくて」


 付け足すと、司会の人はうなずいてくれた。


「まだ歌っていたいくらい、楽しかった?」


「……はい」


 そのとおりだった。


 (最初から、そう言えばよかった)


「また聞きたくなる歌でした。ありがとうございました」


 もう一度、拍手が起きた。


 俺は礼を言ってから、舞台の右へ戻った。


     *


 マイクを返し、バッグから番号札を出して首へ戻す。


 水を飲もうとしたが、早く二人のところへ戻りたくて、ふたを開ける前に歩き出した。


 客席の右へ回ると、相原さんが立って場所を空けてくれた。


「よかった。最後、すごかったね」


「……ありがとうございます」


 藤崎さんも顔を上げた。


「二番の声、変えた?」


 気づいていた。


 俺は、少し早くうなずいた。


「昨日、少し」


「あそこ好き。近くで聞いてる感じがした」


 昨日使った十三点のことが、頭に浮かんだ。


 買ってよかった。


 俺も気に入ったところを、ちゃんと好きだと言ってもらえた。


 スマホを返してもらい、保存された録音を見る。


 本選の一曲が、入っていた。


 (今すぐ聞きたい)


 けれど、舞台では十一番の人が紹介されていた。


 俺は画面を消し、バッグへしまった。


 今日はもう少し、ほかの人の歌も聞きたかった。


 そのあとに、結果が出る。


 拍手の音を思い出している間も、そのことだけは忘れなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。