第27話 二人の一曲
三番の人への拍手が終わると、俺は藤崎さんのスマホを持ち上げた。
録音を始める。
画面の数字が動いたのを確かめてから、舞台を見た。
藤崎さんが中央へ進んでいた。
マイクを持った手とは反対の手で、ワンピースの脇を軽くなぞる。それから前を向き、司会の人へうなずいた。
『窓の灯り』の前奏が流れた。
出だしの声は、練習のときに俺が好きだと言った声だった。
強く押し出していないのに、言葉がちゃんと聞こえる。
相原さんも、体を少し前へ向けていた。
一番のサビに入る。
藤崎さんは高い音へ行く前に、息を吸った。声が伸び、最後まで続く。
そこで拍手をしそうになって、俺は手を止めた。
今日は、まだ続きがある。
*
二番へ入る直前、藤崎さんが小さく肩を落とした。
出だしを、急がない。
最初の言葉が少し長く残り、そのあとへ次の言葉が入った。
俺は、膝の上で指を軽く握った。
できていた。
練習のときに、こっちのほうが楽だと言っていた歌い方だった。
細かい言葉が続いても、次々に追われる感じはしない。前の席にいた人が顔を上げ、そのまま藤崎さんを見ていた。
俺も、画面を確かめるのをやめて聞いた。
録音は動いている。
今のところを、あとで本人も聞ける。
最後のサビは、一番より少し強かった。長く伸ばす最後の音では、声がわずかに揺れた。
藤崎さんは顔をしかめず、そのまま歌い切った。
伴奏が静かになる。
マイクを下ろした顔が、少し笑っていた。
相原さんが拍手し、俺もスマホを膝へ置いて手を叩いた。
「いかがでしたか、一曲歌い終えて」
司会の人が聞いた。
藤崎さんは一度息を吸ってから、マイクを持ち上げた。
「最後まで歌えて、嬉しかったです。去年はここで歌えなかったので」
声が、少しだけ詰まった。
「今日は、二番も聞いてもらえて、よかったです」
もう一度、拍手が起きた。
俺は舞台を見たまま、うなずいていた。
誘ってくれた人が、今日はここで一曲歌えた。
その歌を聞けたのも、俺には嬉しかった。
*
藤崎さんが客席へ戻ってきた。
相原さんが場所を空けると、席に座る前に大きく息を吐いた。
「終わった」
「二番、よかったです」
俺が言うと、藤崎さんはこちらを見た。
「急いでなかった?」
「はい。言葉、聞けました」
「よかったあ」
座りながら、肩の力が抜けていく。
俺は録音を止め、スマホを返した。藤崎さんは保存の画面を確かめてから、そっとバッグへ入れた。
「最後、ちょっと揺れたね」
「そこより、二番の入りがよかったよ」
相原さんが言った。
「うん。私も、あそこはできたと思った」
藤崎さんは水を飲んだ。
気になるところはあっても、できたところを自分でわかっているらしかった。
その顔を見て、俺も少し安心した。
舞台では五番の前奏が始まっていたので、三人とも話をやめて前へ向いた。
*
六番の男性は、先週と同じ曲を歌った。
やっぱり、最後の音が長かった。
ただ、一曲聞くと、その前にも好きなところがいくつかあった。二番の低い声は、先週の一番より少し柔らかく聞こえた。
歌い終えるまで、俺はその声を追っていた。
拍手をしてから、今度はあの二番がよかったと言いたくなった。
言える機会があったら、伝えよう。
前半六人が終わり、十五分の休憩になった。
相原さんが立つ。
「じゃあ、行ってくる。これ、お願いしていい?」
自分のスマホを俺へ渡した。
「はい」
画面を確かめて受け取る。
藤崎さんのは、もう本人のバッグに戻っている。
今持っているのは、相原さんのだ。
今日の俺は、録音する係としては落ち着いていた。
自分の番のことを考えなければ、という条件はあった。
「さっきの速さで行くよ」
相原さんが言った。
「聞いてる」
藤崎さんが答える。
俺もうなずいた。
*
後半が始まった。
七番、相原悠介さん。
名前を聞いて、録音を始める。
相原さんはマイクを受け取り、中央へ進んだ。ギターを持っていなくても、立ったときの感じは歌会と少し似ていた。
前奏のうちから、足先が小さく動いている。
声が入った。
最初の短い言葉で、体が少し前へ行きたくなった。伴奏だけを聞いていたときより、拍子がはっきりする。
前の席で、小さく手を動かしている人がいた。
相原さんはそこへ目を向け、次の言葉を歌った。
声が、少し明るく聞こえた。
俺も膝の上で指を動かした。
応援しようと思う前に、そうしていた。
二番に入っても、速くなりすぎない。
短い間奏でマイクを離し、伴奏を聞いてから戻す。
次の声が入る。
ここだ。
四日前に、本人が確かめていたところだった。
藤崎さんが隣で、小さくうなずいた。
最後のサビまで、相原さんの声は同じ調子で続いた。息を吸う短い間も、音が前へ進んでいく感じが残っている。
最後の言葉が終わったあと、右手が小さく動いて止まった。
そこで、客席から拍手が起きた。
相原さんは顔を上げ、笑った。
俺も手を叩きたかったので、録音しているスマホを膝へ置いた。
今のは、聞いていて楽しかった。
「歌い終えて、いかがですか」
司会の人が聞いた。
「楽しかったです。今日は、入賞して帰りたいと思って来ました」
客席から、小さく笑い声が起きた。
相原さんも笑ってから、続けた。
「最後まで聞いていただいて、ありがとうございました」
頭を下げる。
俺はもう一度、拍手した。
あそこでも、ちゃんと言うのだなと思った。
俺も入賞したい。
その気持ちまで、つられて少し強くなった。
*
戻ってきた相原さんへ、スマホを返した。
「間奏のあと、よかったです」
「ほんと? そこ、ちゃんと待てたと思う」
「私も、聞いてて楽しかった」
藤崎さんが言う。
相原さんは保存を確かめ、バッグへしまった。
「よし。できることはやった」
大きく息を吐いてから、俺へ顔を向けた。
「次、久瀬くんだね」
舞台では八番の人が呼ばれていた。
俺は自分のスマホを取り出し、藤崎さんへ渡した。
「お願いします」
「うん。最後まで録るね」
自分の画面が人の手へ移った途端、少し落ち着かなくなった。
今度は、俺の歌が入る。
バッグを持って立ち上がり、二人の前を通った。
右側の係員へ十番の札を見せると、仕切りの内側へ案内された。示された椅子へ座り、バッグを膝に置く。
八番の声が聞こえる。
そのあと、九番が歌った。
俺は水を一口飲み、ふたを閉めた。手を拭いて、舞台の階段を見る。
昨日は、一人で聞いていた声だ。
今日は二人にも、ほかの人にも聞いてもらえる。
楽しみだった。
それでも、さっきから足を組み替えたいのか、立ちたいのか、自分でもよくわからない。
ああ、もう。呼ばれる前が一番疲れる。
係員が近づいてきた。
「十番、久瀬さん。こちらへお願いします」
「……はい」
俺は立ち上がった。




