第19話 一番が終わるまで
「三十八番、久瀬さんですね」
「はい」
前の人が舞台を降りたところで、係員が番号札を確かめた。
俺は札を外し、足元へ置いたバッグに入れた。渡されたマイクは、店で使うものより少し太い。
持つ位置を確かめ、階段を上がる。
一段ずつは低かった。最後の段へ足を置くと、さっきまで座っていた客席が見えた。
人がいる。
知っていたはずなのに、ここから見ると多い。
先に床の印を探した。中央に貼られた短いテープのところへ立つと、司会の声がした。
「続いては、三十八番、久瀬凪さんです。好きな曲なので、人前でも最後まで歌ってみたいとのことです。曲は『帰り道』。よろしくお願いします」
応募のときの文だ。
書いたときは、これなら短くていいと思った。会場いっぱいに読まれると、思っていたより素直なことを言っている。
(危なかった。十万円が欲しいです、とは書かなくてよかった。こんな音量で会場中に紹介されたら困る)
「……よろしくお願いします」
頭を下げ、顔を上げる。
照明がまぶしい。
右下の画面を見ると、『帰り道』の曲名が出ていた。大丈夫だ。あとは前奏を聞けば、入るところはわかる。
右手の指を、少し緩めた。
*
伴奏が始まった。
何度も部屋で聞いた音だが、今日は低い音が足元からも伝わってくる。上の階からは話し声がして、客室のように歌だけが聞こえるわけではなかった。
それでも、歌い出すところはつかめた。
マイクを口元へ近づけ、息を吸う。
最初の声が、会場へ広がった。
スピーカーから出てくる声は、自分の耳元より少し遠い。でも、高さは思ったところに入っていた。
次の言葉も続いた。
小さく歌っても、息だけにはならない。言葉の最後に音を残せるので、聞こえないかもしれないと慌てて大きくする必要もなかった。
出せている。
そうわかると、次を歌うのが少し楽になった。
二行目を終え、画面から顔を上げる。
前の列の人がこちらを見ていた。その後ろにも、顔を上げている人がいる。
目が合った気がして、左手が気になった。
体の横へ下ろしたままだった。何も持っていないと、急に置き場所が気になる。
そのままでいい。
余計に動かさず、次の歌詞へ戻った。声のほうは、ちゃんと続いていた。
*
サビの前には、短い言葉が続く。
前なら、それを追うだけで忙しかった。今はどこで息を足すかも、次へ進むまでどれくらいあるかもわかる。
軽く出す言葉を選び、その次は少し長く残した。
伴奏を待つ間、客席の右側へ目を向ける。
藤崎さんが見えた。膝へ両手を置き、こちらを見ている。その隣には、相原さんもいた。
二人が聞いている。
俺は、少しずつ声を強くした。
高い音が出る。
喉を締めなくても、声が伸びた。会場が広いからといって、力任せに押し出さなくてもいい。
そのまま次の言葉へつなぐ。
客席の後ろを歩いていた人が、通路の端へ寄った。買い物の袋を持ったまま、舞台を向いている。
俺の歌で止まったのだろうか。
気になったが、次は声を細くするところだった。そこへ意識を戻し、強く出したあとの言葉を静かに歌う。
かすれない。
高さを残したまま、小さくできた。
録音で何度も聞いた、自分でも好きなところだ。ここでちゃんと聞こえたらいいな、と思いながら続きを歌った。
審査員席でペンが動く。
何を書かれたのかは、少し気になった。
でも、今の声はよかった。そこは、自分でもわかる。
次の音も同じように出せると思うと、ただ間違えずに終わらせるためではなく、聞いてもらいたくて声が出た。
*
一番の終わりが近づいてきた。
画面の歌詞が、残り少なくなる。
もう終わるのか。
さっき階段の前では早く順番が来てほしかったのに、歌い始めると、一コーラスは短かった。
最後に向けて、息を足す。
相原さんのギターでは、声を消すまで待ってもらった。今日はカラオケの中にある時間を使い、少し手前から進めている。
急いで切らなくても、間に合う。
最後の言葉へ入った。
音の高さを保ち、ゆっくり声を細くする。息だけになる手前まで、自分で加減できた。
声が消えた。
そのあとに伴奏が残り、俺はマイクを下ろした。
最後の音が終わる。
少し間があって、拍手が聞こえた。
顔を上げると、前の列だけではなかった。通路の端にいた人も手を叩いていた。さっき持っていた買い物袋が、足元に置かれている。
聞いてくれていた。
二階の手すりにも、こちらを向いた人がいた。
藤崎さんを見ると、笑って拍手をしていた。相原さんも手を叩いている。
嬉しくて、もう少し見ていたかった。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
礼を言う声は、歌っていたときより小さかった。でも、今度は少しだけ顔を上げてから、係員のいるほうへ向かった。
*
階段を下りてマイクを返すと、お疲れさまでした、と声をかけられた。
「ありがとうございます」
バッグを持ち上げたところで、手のひらが汗ばんでいるのに気づいた。さっき拭いたばかりなのに、また湿っていた。
番号札を出して首へ掛け、次の人のために道を空ける。
客席へ戻ると、相原さんが通路を空けてくれた。藤崎さんも小さく手を上げる。
「お疲れ」
俺は二人の前を通り、椅子へ座った。
バッグを膝に置くと、長く息が出た。
「すごくよかった」
藤崎さんが声を落として言った。
「最後も、ちゃんと聞こえたよ」
「……小さすぎませんでしたか」
「ううん。静かになったから、最後まで聞こうって感じだった」
聞こえたらしい。
自分の中ではうまくいったと思っていたが、そう言ってもらえると、さらに嬉しくなった。
「強いところから、ああやって落とせるの、いいね。俺、今の最後、好きだった」
相原さんも言った。
ありがとうございます、と返す前に水筒を出した。
喉が渇いていたのもある。でも、今は顔を見られたまま返すと、にやけそうだった。
一口飲んで、ふたを閉める。
「……ありがとうございます」
少し遅れた返事にも、二人は普通にうなずいてくれた。
舞台では、三十九番の歌が始まっていた。
俺はそちらを向く。立つ場所も、最初の挨拶も、歌い終えて降りるところも、全部済ませて戻ってきた。
自分の出番を気にせず、聞いていていい。
背もたれへ寄りかかると、膝の上で番号札が少し揺れた。
また同じ声を出せる。
そう思うと、あの舞台でもう一度歌いたくなった。




