第18話 去年の続き
相原さんのあとに二人が歌い、最初の組が終わった。
休憩の案内が流れると、通路へ出ていく人と、空いた席へ座る人が入れ替わる。買い物の袋を抱えて、立ったまま舞台を見ている人もいた。
俺も一度立って、足を伸ばした。
まだ歌っていないのに、ずっと座っていたせいで膝の裏が少し固い。
「私、ちょっと歩いてくる」
藤崎さんがバッグを持つと、相原さんが足を引いた。
「いってらっしゃい」
藤崎さんは戻る席を一度振り返り、通路へ出ていった。
座り直すと、相原さんが舞台の右側を指した。
「上がる階段、一段が低いからね。足元見たほうがいいよ」
「はい。歌う場所は、真ん中の印ですか」
「うん。係の人も教えてくれる。歌詞の画面は、立ったところから少し右下」
客席からでは、中身までは見えない画面だった。あちらを見ればいいのだとわかると、少し安心する。
先に歌った人がいると、こういうことまで聞ける。
思いつくことをもう一つ聞きかけたが、出てきたのは、まぶしかったですか、だった。照明のことは、さっき聞いた。
同じ確認を増やすのはやめ、藤崎さんが戻るまで舞台を見ていた。
*
一時二十五分になり、二組目が始まった。
二十一番の人は、明るい曲に合わせて大きく体を動かした。前の席から手を振られ、本人もそちらを見て笑う。
見ていて楽しい。
俺も、あれくらい動いたほうがいいのだろうか。
少し考えたが、マイクを持って立つだけで、あれだけそわそわしていたのを思い出した。
(やめとけ。慣れないことを本番で増やすな)
次の人はほとんど動かず、長い音を伸ばした。
それがきれいに残ると、俺も最後まで聞いた。前の席からも、小さく声が上がった。
その人によって違っていていいらしい。
隣で藤崎さんが、番号札を確かめた。
二十六番の人が出るところだった。
「行ってくるね」
「はい」
答えると、藤崎さんはバッグからスマホを出した。
「私のも、音だけ録ってもらっていい?」
「大丈夫です」
「ありがとう。ここ押したら始まるから」
録音の画面を開いたまま、渡してくれた。
初めて一緒に練習した日は、自分の番だけ止めてほしいと言っていた。今日は、自分から録ってほしいと頼んでいる。
「始まる少し前からで、いいですか」
「うん。終わったら止めといて」
藤崎さんは軽く手を上げ、相原さんの前を通っていった。
俺はスマホを持ち直した。
録音の操作は、自分でも何度もしている。押すところもわかった。
あとは、落とさない。
人のスマホだと思うと、自分のものより持ち方が丁寧になった。
*
三十番の歌が終わったところで、録音を始めた。
前の人への拍手も入る。でも、歌い出しに間に合わなくなるよりは、少し早いほうがいい。
藤崎さんが階段を上がった。
紺色のワンピースは、客席で見たときより明るく見えた。中央に立って、マイクを受け取る。
「『窓の灯り』を歌います。よろしくお願いします」
声が、会場に響いた。
俺は録音の赤い印を確かめ、顔を上げる。
前奏のあと、藤崎さんは一度息を吸った。
最初の声には、練習より少し硬さがあった。でも、急に大きくせず、次の言葉へ続いていく。
高い曲を試していた頃は、一行を歌い終えると、次の息を入れるだけで忙しそうだった。
今日は、ちゃんと間に合っている。
声を出すたびに肩が上がることもなく、歌い終えたあとで次の息が入った。
審査員席の真ん中で、ペンが動く。
藤崎さんは、一度そちらを見た。それでも次の歌詞まで急がず、伴奏を待ってから続きを歌った。
俺が好きだと伝えたところだ。
少し声が柔らかくなり、言葉の終わりまで残る。俺はスマホを膝の上で動かさないようにして、顔を上げたまま聞いた。
サビに入る。
それまで静かに続いていた声が、そこで大きく広がった。
前の列にいた女性が紙袋を足元へ置き、両手を膝に戻した。舞台のほうを見ている。
あの人にも、今のところが聞こえたのだと思うと嬉しかった。
一番の終わりが近づく。
藤崎さんは最後の言葉に、少し声を残した。
息だけにならず、音が続く。練習のときに二通り試して、こっちにすると選んだ歌い方だった。
最後まで、ちゃんと出た。
伴奏が終わり、藤崎さんが頭を下げる。
俺は録音を止めてから、手を叩いた。
*
戻ってきた藤崎さんは、バッグを下ろして、俺を見た。
「ありがとう」
「録れました」
スマホを返すと、画面を確かめて保存した。
「最後、ちゃんと出たね」
相原さんが言った。
「うん。途中で、もう息ないってならなかった」
座った藤崎さんが、ゆっくり肩を落とす。
「聞いてても、苦しそうじゃなかったです」
「よかった。去年はね、終わる前から早く終われって思っちゃってたんだ」
舞台では、もう次の人の伴奏が始まっていた。
藤崎さんは水を飲み、ふたを閉めた。
「今日は、もう二番だっけって、一瞬思った」
そのまま続きを歌うつもりでいたらしい。
歌い終わったばかりの声が、少し弾んでいた。去年のことを話したときのように、喉へ手を当てたりはしなかった。
俺も嬉しくなった。
「あの曲で、よかったですね」
「うん。よかった」
すぐに返ってきた。
自分で選んで、最後まで歌えた曲なのだ。その返事を聞くと、録音を頼まれたことも嬉しかった。
*
三十二番が歌い終えた。
俺はバッグを膝へ持ち上げ、自分の番号札を確かめる。
三十三番で移動。次だった。
「……行ってきます」
藤崎さんが体を寄せ、相原さんも立ってくれる。
「行ってらっしゃい」
「聞いてるからね」
うなずいて二人の前を通り、右側の係員へ向かった。
「三十八番の、久瀬です」
番号札を見せると、係員は紙を見てうなずいた。
「はい、こちらへどうぞ。順番にお待ちください」
仕切りの中には椅子が並び、先に来た人たちが座っていた。空いているところへ腰を下ろし、バッグを足元へ置く。
ここからは、客席の二人が見えない。
舞台の声は、よく聞こえた。
三十五番の男性が、ゆっくりした曲を歌っている。最後の音を長く伸ばすところがよくて、俺も少し顔を上げた。
次の人が呼ばれる。
俺は水を一口飲み、ふたを閉めた。持っていた手を膝へ置くと、少し汗ばんでいた。
あのマイクを受け取ったら、このまま握ることになる。
ハンカチで手を拭き、もう一度バッグへしまった。今からできることが一つ済んだので、その分だけ気は楽になった。
前の椅子の人が立つ。
係員が、こちらを向いた。
「久瀬さん、準備をお願いします」
「はい」
返事は、普通に出た。
立ち上がると、心臓の速さを意識した。それでも、係員はいつもどおりの声で、階段の前へ案内してくれた。
俺も、ついて歩いた。




