第17話 今日は客室じゃない
目を覚ますと、まだ目覚ましは鳴っていなかった。
スマホは八時四十六分。
あと十四分あったが、今日は起きてしまおう。二度寝して九時を過ぎるほうが怖い。
布団を畳み、炊飯器を開けた。朝食を食べ、おにぎりを二つ作る。冷ましている間に着替え、灰色のシャツのボタンを留めた。
鏡の中の顔は、少し眠そうだった。
肩のあたりを整える。シャツは昨日と同じように着られているので、大丈夫だと思う。
水筒と包んだおにぎりをバッグへ入れ、玄関で靴を履いた。
九時五十分。
予定どおりに出られると、それだけで少し調子がいい気がした。鍵を掛け、一度ドアを引いてから階段を下りる。
*
商業施設の入口に、藤崎さんがいた。
紺色のワンピースを着て、スマホを見ている。顔を上げてくれるまで、いつものエプロン姿と結びつかなかった。
「おはよう。あ、そのシャツだ」
「……おはようございます」
「写真より、着たほうがいいね」
俺は襟を少し触った。
「変になってませんか」
「大丈夫。私の後ろも、平気?」
藤崎さんが横を向いたので、裾が折れたりしていないか確かめる。
「大丈夫です」
「よかった。座って来たから、跡ついてないかなって」
写真よりいい、と言われたところを、まだ少し喜んでいた。
(似合ってます、くらい言えばよかった。頭の中で言えてるんだから、口でも言え)
もう一言考えている間に、相原さんが来た。
「おはよう。二人とも早いね」
時計は十時二十分。約束した時間だった。
うなずいて、三人で中へ入る。藤崎さんがいつもの調子で話し始めたので、服のことを今から言い足すのはやめた。
*
吹き抜けへ近づくと、マイクを試す声が聞こえた。
音が上の階まで響いている。
前に来たとき展示棚が並んでいた場所には、低い舞台ができていた。黒い幕で下の部分を隠し、中央にマイクが一本立っている。
両脇のスピーカーが、大きい。
店の客室なら天井についているものが、今日は俺より存在感のある大きさで置かれていた。
正面に並ぶ椅子の後ろを、買い物客が歩いている。上を見れば、二階の手すりにも人がいた。
あそこからも見えるのか。
写真でも階は写っていたはずだが、実際に人がのぞいているのを見ると、思っていたより聞く場所が広かった。
「受付、あっちだね」
相原さんに続き、机の前へ向かった。
受付が始まり、列の後ろへつく。メールを開き、見せやすいよう明るくしているうちに順番になった。
「おはようございます。お名前をお願いします」
紺色のスタッフ用ジャンパーを着た女性が、顔を上げた。
「久瀬凪です」
「三十八番の久瀬さんですね。催事担当の宮田です。本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
宮田さんは名簿へ印をつけ、首から下げる番号札を渡してくれた。
「こちらを着けておいてください。曲とキーは、お間違いないですか?」
向けられた紙を見る。『帰り道』、原曲と同じキー。
「はい」
「説明は十一時二十分から、舞台の前で行います。それまではご自由にどうぞ」
礼を言い、机から離れた。
ひもを首へ通すと、三十八の札がシャツの胸元に来た。少し傾いたので、正面へ直す。
番号がつくと、近くの参加者と同じ格好になった。どこにいていいかわからずに立っていたさっきより、いくらか楽だった。
*
説明までは、三人で会場の端にいた。
舞台の右に低い仕切りがある。中には椅子と、舞台へ上がる階段が見えた。客席からそこへ向かう通り道も空いている。
メールの図で見た場所だ。
十一時二十分になると、宮田さんが参加者を集め、当日の流れを説明した。
自分の五人前を目安に、右側の係員へ声をかける。呼ばれたらそちらへ行く。歌う前には名前と曲を確認してもらえるらしい。
「一番の演奏が終わりましたら、マイクを係員へお渡しください。降りるときもご案内します」
宮田さんが階段を指す。
終わったあとも教えてもらえるなら、助かる。歌い終えてから左右を見比べたくはない。
いくつか質問が出て、説明は終わった。
俺たちは入口近くのベンチへ移り、昼食を少し食べることにした。
「ちゃんと持ってきたんだ」
おにぎりを見て、藤崎さんが言った。
「はい」
「私、結局パンにした。今、全部食べると多いかな」
「俺、一個にしておきます」
もう一つはバッグに戻した。出番は二組目なので、あとで食べる時間もある。
相原さんもパンの袋を開け、会場のほうを見た。
「始まると、意外と早いよ。去年、前の人を見てたら、もう呼ばれてた」
「十八番ですもんね」
「うん。先に終わってくる」
そう言えるのは、少しうらやましかった。
俺も歌い終えたあとなら、これくらい普通におにぎりを食べられるだろうか。
今も、普通に一個食べてはいるのだが。
*
正午前に客席へ戻ると、右側の列に三つ空いていた。
通路から、相原さん、藤崎さん、俺の順に座る。
前にも後ろにも人がいた。歌会では四人に聞いてもらったが、今日は席を数えなくても、それよりずっと多いとわかる。
司会の人がマイクを持ち、大会が始まった。
最初の男性が名前を言い、曲が流れる。迷わずに出した声が、吹き抜けへ広がった。
うまい。
大きいだけでなく、言葉が遠くまで聞こえる。周りの人も前を向き、俺も少し体を起こした。
次の人は、ゆっくりした曲を歌った。同じ舞台なのに、さっきとは違うところで耳が向く。
ほかの人も、ちゃんと歌ってきたのだ。
どの曲を選ぶか考えて、今日まで練習している。聞いていると、自分ならここをどう歌うだろう、と考えたくなるところもあった。
気づけば、相原さんがバッグを持ち上げていた。
「そろそろ行ってくる」
前の人の歌が終わったところで、小さく言う。
もう十三番だった。
「行ってらっしゃい」
藤崎さんが答え、俺もうなずいた。
相原さんは係員へ番号札を見せ、仕切りの向こうへ入った。
思っていたより、本当に早い。
*
「十八番、相原悠介さんです」
呼ばれて、相原さんが舞台へ出た。
さっきまで通路側にいた人が、大きなスピーカーの間に立っている。知っている人が出ると、少し前のめりになった。
挨拶のあと、聞き慣れた前奏が流れる。
相原さんの右足が、小さく動いた。
練習のときと同じだ。
声が広がっても、短い言葉が入るところははっきりしていた。藤崎さんが膝の上で指を動かし、俺も続きの声を待つ。
前に少し急いでいたところへ来た。
今日は、そのあとで速さを戻そうとする感じがない。軽く進む調子のまま、最後まで続いた。
後ろから、手拍子が聞こえる。
相原さんは顔を上げ、客席を見ながら歌い切った。
拍手をすると、舞台から軽く頭を下げて降りていく。
よかった。
そう伝えるつもりで待っていると、相原さんが席へ戻ってきた。
「終わった」
座るなり、長く息を吐く。
「よかったよ。途中、急がなかった」
藤崎さんが声を落とした。
「最後まで、聞きやすかったです」
「ありがとう。最初、照明が思ったよりまぶしくて」
相原さんは水を取り、ふたを開ける。
「始まったら歌えたんだけど」
舞台では、次の人へマイクが渡されていた。
相原さんが戻ってくると、急に自分の番も近くなった気がした。隣で水を飲んでいるのを見ると、歌い終えた人の余裕まで感じる。
俺も早く、そっちになりたい。
でも、せっかく歌える時間を急いで終わらせるのは惜しい。
膝の上で番号札を持ち直し、次の歌へ顔を向けた。




