第16話 明日の朝は早い
予選の前日、夕食を作る前に、当日の服を着てみた。
買ったばかりの灰色のシャツに、手持ちの黒いパンツ。鏡の前で裾を直し、右手を上げる。
いいと思う。
服屋で試したときと変わらないが、下まで合わせると、そのまま出かけられそうだった。
しばらく見てから、シャツを脱いだ。
これで夕飯を作るのはやめよう。明日のために買ったのに、先に油を飛ばしたくない。
ハンガーへ掛け、台所から離す。普段着に戻ってから、野菜を切り始めた。
*
鍋を火にかけ、煮ている間に朝の支度もした。
炊飯器の予約を入れる。卵と海苔を出しやすいところへ移す。おにぎりは、朝食を食べたあとに作ればいい。
料理を一点上げてから、明日の分までついでに用意できるようになった。
前なら、食べるものがなくて出勤途中に買うか、食べ終わってから翌日の分もないと気づくかだった。先に少し多く切っておくだけでも、かなり助かる。
歌唱ほど派手ではないが、使う回数はこっちも多い。
予選が終わったら、ほかの便利そうな技能もゆっくり見たい。毎日使うものへ振ったら、どのくらい楽になるのだろう。
鍋のふたを少しずらし、テーブルへ戻った。
四日前、三人で練習したときの録音を開く。
「久瀬凪です。『帰り道』を歌います」
短い挨拶のあとに、前奏が流れた。
聞きながら、鍋の火を弱める。部屋には俺の歌が流れ続けている。
録ったばかりの頃は、自分の声だから気になるところばかり探していた。今は、高いところへ来ると少し楽しみになる。
ここから静かにするところが、いい。
ちゃんとそう歌えているのを聞き、火を止めた。最後の音が消えたあとには、二人の拍手も入っていた。
もう一度再生しようとして、やめる。
歌い方の確認はできた。あと一回聞きたいのは、ただ気に入っているからだ。
それなら、大会が終わったあとでも聞ける。
*
夕食を終える頃、藤崎さんから連絡が来た。
『明日、よろしくね。十時二十分、入口で』
『よろしくお願いします』
返すと、相原さんも入ってきた。
『了解。今日はもう準備終わり。久瀬くんも早く寝てね』
もちろん、そのつもりだ。
時計を見ると、まだ八時前だった。
寝るには早い。店へ行けば、一時間くらい歌って帰ってこられる。
予約画面を開きかけて、指を止めた。
危なかった。「ちょっとだけ」で済ませられないのは、俺が一番よく知っている。
出かけて、歌って、帰ってから風呂へ入れば、それなりに遅くなる。最後にもう一曲入れたくなるのも、先日の一時間でわかっていた。
今日は休もう。
相原さんの文へ、はい、と短く返す。
(素直な返事だけはできるんだよな、俺)
スマホを充電器につなぎ、先に風呂へ入った。
*
戻ってから、バッグの中を確かめた。
財布、ハンカチ。スマホは充電が終わったら入れる。水筒とおにぎりは、明日の朝だ。
今入れられるものを詰め、バッグを玄関の脇へ置いた。
靴も出す。シャツを買いに行ったときにも履いた、いつもの黒い靴だ。目立つ汚れを拭くと、思っていたよりきれいになった。
明日は、九時に起きて朝食を食べる。
シャツを着て、この靴を履けば、あとは入口へ向かうだけだ。
準備しているうちに、少し楽しみになっていた。店でも音楽室でもない、あの舞台で自分の声が聞こえる。
買い物の途中で、足を止める人もいるかもしれない。
そこまで想像すると、今度は緊張してきた。
聞いてほしくて応募したのだから、人が来るのはありがたい。でも、最初にこっちを向かれたとき、俺はどんな顔をしているのだろう。
靴を揃え、立ち上がった。
顔の練習まで始める前に、寝る支度を終えよう。
*
布団を敷いてから、最後にゲームを開いた。
キューブは今日も増えている。毎秒七億以上入るが、次の合成ユニットを買うには、もう少し貯める必要があった。
寝て起きたら、すぐ押せるというほどではない。
今夜、ずっと見ている理由はなかった。
【歌唱 Lv.6】
【料理 Lv.1】
【所持スキルポイント:8】
歌唱の表示を、少し眺めた。
レベル六の声で、三人の練習はうまくいった。自分の好きなところも、二人に伝わった。
明日は、もっとたくさんの人に聞いてもらえる。
できれば、その次の週も。
本選なら一曲全部だ。『帰り道』の二番から、最後にもう一度高くなるところも歌える。それが済んで名前を呼ばれたら、きっと嬉しいと思う。
賞金の十万円も、もちろん欲しかった。
そこだけは、服を買った今も変わっていない。
画面を閉じ、枕元へスマホを置いた。目覚ましが九時になっているのを確認し、電気を消す。
横になると、シャツの形が薄暗い部屋の中に見えた。
明日、あれを着て行く。
そう思いながら寝返りを打ったところで、目覚ましの設定がまた気になった。
さっき見た。これで二回目だ。
もう手を伸ばさず、布団を肩まで引き上げた。




