第176話 本を渡す手と、俺の声
次の火曜日、雨上がりの駅の外で本を渡す場面を撮り、道に残る水の明かりを見てから、包んだ一冊を持った。
受け取る客役は、前の映画で由衣をやった田辺さんだった。挨拶を終えて撮影に入ると、今は陸の店へ本を頼んだ人として近づいてくる。
注文票の最後の一冊を待っていた客が、俺と兄を見つけて寄るので、俺は包みの角へ触れたまま顔を上げた。
「わざわざ、すみません」
「いえ。間に合って、よかったです」
渡したあと、相手の手にちゃんと重さが移るまで離さずにいると、田辺さんは表紙を少し見て笑った。
「探してたものです」
兄に見せるために笑うのではなく、待った人へ渡せたところで小さくうなずき、その本が袋へ入るまで見ていた。
*
客が離れると、隣にいた若松さんが、まだあんなふうに来る人がいるんだなと、本を受け取った顔を見てから言った。
「いるよ」
短く返し、終えた注文票を空の袋へ入れると、兄から傘を受け取り、今度は二人で同じほうへ歩いた。
前には店を見て回っていただけの兄が、今は同じ仕事の帰り道へ少し寄って来たので、俺はその隣を急いで離れなかった。
撮り終えると田辺さんが包みを戻してくれて、前の宮下とはずいぶん違うと、俺の手元へ目を向けた。
「今日は、自分の店なので」
宮下は友人の代わりに売店へ立ったが、陸は長く働き、終える日も決めた人なので、本を渡すまで待つ手も変えたかった。
「最後まで、ちゃんと触ってた。来た客が安心できる手だった」
そう言ってもらったので、俺は包み方を教わって何度も触った本を一度見て、道具の人へ戻すときにも、受け取る手を待った。
*
片付けが始まり、いつもの服へ着替えて少し離れた店の前で待っていたら、一人の人に声をかけられた。
「あの、灯り舎で歌ってた方ですか」
「はい」
「やっぱり。曲も買いました。短いほう、昨日も帰りに聞きました」
顔を上げて答えたあと、次の返事がすぐには出なかった。今日は陸の言葉ばかりだったところへ、俺の歌の話が来ていた。
今の人は役の客ではなく、昨日の帰りにも本当に聞いてくれた人だとわかって、俺は少し遅れて礼を言った。
「ありがとうございます」
その人は笑ってから、急いでいるらしく店の中へ入っていったので、俺は見送り、鞄を持ち直した。
どの注文だったかはわからないが、買ったあとも歌を聞いていたことは、今の一言からわかり、あの七十二秒を思い出した。
(次の会、また来てもらえたらいいな)
片付けた荷物を持ってきた川瀬さんへ礼を言い、明日の最後の撮影を確かめてから、俺は駅へ向かった。
帰宅したら台本だけでなく、今度の歌の予定も開きたくなって、鞄の中で携帯のあるところへ手を寄せた。




