第175話 帰りたいのは、どちらのほう
火曜日の夜、営業を終えた店で話す場面を撮り、外の明かりが入る扉のそばで、兄が店を続ける案を出した。
陸一人でなく二人ならできる、と机に広げた紙には、弟が前に考えたのと似たことが、今から始める案として並んでいた。
俺は最初の読合わせより声を抑え、紙から若松さんへ目を戻すと、言い出す前にもう一度、その顔を見た。
「何をすればいいか、俺が考えなかったと思ってる?」
怒鳴るだけでは説明を続けられそうだったので、書かれた一つを指し、今まで陸がしたことを、その紙の上で返した。
「それ、一昨年にやった。こっちは、去年」
「じゃあ、知ってるなら、もう一回できるだろ」
兄が少し顔を上げて言うと、俺は紙から手を離した。もう一度したいとは言っていないことを、まだ聞いてもらえていなかった。
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「俺は、ほかのところへ行きたいんだよ」
そこで初めて、兄の目が弟から店へ移ったので、俺も次の言葉を急がず、相手が棚を見るところまで待った。
「ここ、なくしてもいいのか」
「なくしていいものしか、辞められないわけじゃないだろ」
返して息を取ると、俺も棚の小さい傷へ目を向けた。陸はここを嫌いになったわけではなく、ほかでやってみたいことを選んだ。
若松さんが紙を畳みかけ、途中で手を止めたので、俺はその手を見て、持って帰るとも、置いていくとも言わずに待った。
「俺には、まだ、ここがいるんだよ」
顔を上げた。
店を続ける方法の話だと思って聞いていたところへ、兄自身が戻る場所を欲しがる声が来ると、同じ返事では済まなくなった。
弟のための話として帰ってきたことには、まだ腹が立つ。それでも、今の兄へ紙を持って帰れとは言えず、少し息を吐いた。
「……先に、そう言えばよかった」
若松さんが口を開きかけたまま言葉を出せずにいるのを見て、俺は椅子を一つ引き、兄へ少し寄せた。
店を続けるとは言わないまま、ここで話す席だけを空けると、兄が座ったところまで、川瀬さんは撮っていた。
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止める声で顔を上げると、俺たちはまだ椅子に座っていて、さっきまで陸と話していた人が、若松さんへ戻った。
川瀬さんは映像を見ながら、兄の言葉のあとも、弟が全部を許す顔にはならなかったところがよかったと言った。
俺もその部分を見ると、怒っていたものの上に兄の声が来ていて、どちらかを消さずに椅子を出す手まで続いていた。
「椅子が来たとき、兄のほうは、やっと座っていいんだと思った」
横から若松さんが言ったので、俺は画面の椅子へ目を戻し、帰ってほしいだけではなかったと答えた。
出した椅子にそう見えていたとわかると、今度もそこを残したくなり、翌日の近くから撮る場面では、兄の声をまた待った。
ここがいると言う前に、若松さんが昨日より長く息を置いたので、俺はそのぶんの顔を見てから自分の言葉へ入った。
迷ってから出す手は同じ位置へ戻せた。二つの角度を続けて見せてもらうと、相手を待つ時間が変わっても、同じ二人の夜になっていた。
*
帰りに店の外で話した若松さんは、今度は次の舞台の台本を読んでいて、真よりだいぶしゃべる役だと教えてくれた。
「見たいです」
「決まったら知らせる。今度は、こっちが怒鳴らないかもしれない」
少し笑って答えると、俺も別の役の若松さんを見たくなり、次にどんな声で返す人なのか、知らせてもらうのを楽しみにした。
俺は家に帰ったら港の町を動かしたいと思い、撮影があと二日残る予定を確かめて、今日は台本を鞄へしまった。




