第172話 ただいまを、待っていなかった
火曜日の朝、古本店へ着くと、看板の名前が映画のものになり、前にはなかった閉店の案内が扉に貼ってあった。
棚の本は同じくらい残っているのに、その紙を通り過ぎて入ると、最後の一週間に立つ陸のほうへ気持ちが寄った。
衣装へ着替えてカウンターの内側へ入ると、最初に撮る兄の帰宅を待つ間、俺は包みかけの本の位置を確かめた。
扉の外にいる若松さんの鍵は、読合わせのものよりくすんでいて、道具の人が、長く使っていない兄の一本として用意していた。
弟の鍵はカウンターの下にあり、同じ形でも持ち歩く紐が違う。俺はそちらを触らず、川瀬さんの位置の確認を待った。
*
扉の音がしてから、包みかけの本へ紙をかぶせ、顔を上げると、若松さんが店へ入ってきた。
「ただいま」
読合わせより明るい声だったので、一瞬、普通に迎えかけた。口を開く前に兄の手の鍵を見て、そこから顔へ戻した。
「鍵、まだ同じでよかったね」
最後を少し落としても、兄は鍵をしまわない。俺もお茶を出しに行かず、棚へ本を一冊戻してから、包みかけの本へ手を戻した。
その一冊を置く棚だけは、初めて来た人のように探さず触ると、一度目が終わり、近くで映像の確認を待つことになった。
「今、ただいまに返事しかけたね」
「はい」
「そこは、残して。次は弟の顔を近くから撮る」
川瀬さんがそう言い、カメラが近づいたので、俺は同じところへ立ち、紙をかぶせて、今度も扉の音から待った。
兄が声を出すまでを俺のほうで早めずにいると、迎えかけた息は来たが、顔の近くで見せる分だけ、短く止めた。
冷たさを強くする代わりに、兄の顔を見たあとで仕事へ戻る順番を残し、目を下ろす動きも大きくしなかった。
見せてもらった映像には、台詞の前に一度柔らかくなり、そのあと戻る目があり、俺は先の遠い画面と続けて見た。
「遠いところのと、ちゃんとつながる。これなら、両方使える」
川瀬さんに言われて、俺はもう一度顔を上げた。近づいた画面でも、兄が帰ってきた今の弟を、同じまま残せていた。
*
水曜日には兄が店を見て回る場面を撮り、若松さんは、昔あった本が見つからない棚の前で、少し迷った。
「あれ、まだあったと思ったけど」
「売れたよ」
俺が短く答えると、兄は笑いかけて、売れたならよかったと言ったので、次の台詞の前に、その顔を見た。
店が変わっていないつもりで戻った人でも、本が売れたことは喜べるのだと、その声を聞くと今の陸にも思えた。
先に考えた速さで返さずに一度待ち、兄から本へ目を落としたところまで撮ると、川瀬さんが二人を呼んだ。
「兄のことを、ずっと同じように嫌がってない。それが、今、見えた」
兄の笑ったあとに俺が本を見る映像を続けて見せてもらうと、言葉を聞いた分だけ、最初の冷たい返事からも変わっていた。
台本の最後では鍵を持っていてよいと言う弟なので、今の兄の笑いも、消さずに続けていいと思って、俺は台本をしまった。
まだ二日だった。
弟として話す日は八日残り、今はわからない兄の顔もまだ来るので、次の場面のページへ印を付けて鞄へ戻した。




