第168話 兄の返事は、まだ知らない
水曜日、映画の出演料の前払い十八万円が入り、俺は受領の連絡をしてから、兄役の人に会うための台本を鞄へ入れた。
まだ映画を完成させた代金ではなく、引き受けた仕事を始める分だと思うと、表紙の自分の名前も、もう一度見たくなった。
部屋へ着くと、先に台本を広げていた若松さんが立ち、兄の真ですと挨拶してくれたので、俺も名乗った。
「陸をやります。久瀬です」
向かいへ座り、川瀬さんから、店へ帰る最初、夕飯、店を残せないか話す夜の順で読もうと聞いて、最初を開いた。
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若松さんの『ただいま』は思っていたより小さく、帰ってきたことを気にしている兄にも聞こえたので、俺はすぐには返さなかった。
顔を見て、そのあと鍵へ目を向けると、前に川瀬さんを相手にしたときほど強く、最後を落としたくなくなった。
「鍵、まだ同じでよかったね」
追い出したいほどではないが、何もなかったようにも迎えたくなくて、俺はその声を出したあと、相手を待った。
「うん。変わってるかと思った」
若松さんが少し肩を引いて言うと、覚えていた台本の言葉が、今目の前から来た返事になり、俺はもう一度顔を見た。
一場面のあと、川瀬さんに何を言いたくなったか聞かれて、鍵を変えておけばよかったとは思わなかった、と答えた。
「変わってると思ってたのに、来たんだな、と思って」
若松さんが小さくうなずき、今の兄は入れなければ連絡するつもりだったと、台本を閉じずに話してくれた。
「鍵を持ってたのは、捨てられなかっただけだから」
その話を聞いて、同じ鍵でも二人が六年の間に使った回数は違いそうだと思うと、もう一度読むときには、手から取ろうとはしなかった。
兄の持ったままの鍵を見て、カウンターの奥へ入れてやるところまで、俺はさっきより少し長く待った。
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夜の場面で、二人なら店を残せると兄が話すところへ来ると、陸が別の暮らしを選んだことを、まだ聞いてもらえていない気がした。
「何をすればいいか、俺が考えなかったと思ってる?」
声を強めると、若松さんが返事の前に口を閉じ、説明を続けそうだった顔が止まったので、俺も次の言葉を待った。
川瀬さんはそこで切らず、怒った声のあとも続けて読めた。兄の返事を受け取ったあとの最後は、少し小さくなっていた。
休憩で若松さんが水を飲みながら、さっきの声はけっこう来ると言ったので、俺はつい、すみませんと返した。
「謝るところじゃない。兄も、そこで初めて止まれたから」
顔を上げると、さっきまで言い争っていた人は普通に水を飲んでいて、俺も自分の水へ手を伸ばした。
(役のほうが、俺よりしゃべる)
もっと短く怒るつもりで読んできたのに、実際の兄の声を聞いたら言いたい分が続いたので、そのあたりを台本へ書き留めた。
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帰り際、石倉さんから月末の二曲の数が届き、最初の一週間の十四セットから十八増えて、三十二セットになっていた。
俺の分は一万二百四十円で、来月十五日に入る。今日受け取った十八万円とは別に、こちらは入る予定として記した。
台詞を読んでいた今日にも、誰かが二曲を聞いてくれたかもしれないと思って、俺は売れた数だけをもう一度確かめた。
明日から新しい月になり、次の水曜には撮影する店へ行くので、鞄の台本を出し、今聞いた兄の返事からもう一度読んだ。




