第149話 もう一度、俺の歌を
『バスの来ない夜』は、少し低い声で始めた。早く帰りたいのに、隣の人がまだ話すから返事をしてしまう、その短いやり取りを急がずに歌う。
言葉の最後を待つと、あとからギターの音が入った。前の席で口元を緩める人が見え、その次の返事も、強く言い切らずに残せた。
まだ次のバスが来なければいい、と思い始めるところで声を明るくした。顔も前へ向け、相手の返事を聞きたいほうの声を選ぶ。
同じ短い言葉でも、初めは帰りたかった人が、今は話を終えたくない。その変わり方を自分で聞き、最後の言葉まで歌った。
『空のグラス』では、マイクへ近づいて、大きく響かせたいところも、最初から全部は鳴らさなかった。
小野さんが少ない音で付いてきたので、最後の返事の前で長い声を細くし、切らずに残したあとへ短い言葉を入れた。
鍵盤が消えても、すぐには顔を動かさなかった。客席も静かで、前の列には、歌っているあいだと同じように、こちらを向いた顔が並んでいる。
それから拍手が起きた。
礼をし、音が落ち着くのを待ってからマイクを上げた。金曜日にもう少し待ってほしいと言った場所へ、今日は聞いてくれた人の拍手も入っている。
「最後は、『手のひらのつづき』です」
前の席で二人が顔を見合わせた。短いところを知っているのかもしれない、と思い、前に歌っていた部分のことも伝える。
「長い版ができたので、今日、最後まで歌いたくて選びました」
石倉さんを見ると、ギターへ手を戻した。その音を待ち、一番の、前は知らなかった歌い出しから入る。
制作室で見本を聞いていたときは、知っているサビが来るのを待った。今日は俺がその手前を歌うので、言葉を進めながら、客席も見ていられる。
サビへ入ると顔を上げた人がいた。そのままいつもの終わりまで歌い、止まらずに間奏へ進んで、次の言葉へ残した息も使う。
二番の始まりでは、声を落ち着かせた。同じ三十秒を繰り返すためでなく、この先を歌いたいと話して、石倉さんに作ってもらった歌だった。
その長い版を、今は小野さんの鍵盤も一緒に鳴らしている。二人の音を聞くと、次へ入る声も、自分で好きなほうを選べた。
最後のサビの前で二人を見た。石倉さんの手が止まり、小野さんの指も次の音を待っていたので、息を吸って顔を戻す。
三人の音が入った。
高くなるところでも喉を押し上げず、響きを残したまま言葉を伸ばせた。途中で一度柔らかくしてから、最後の行をまっすぐ歌う。
前の人だけでなく、一番後ろにも聞いてほしかった。顔をそちらへ向けても声は変えずに済み、鍵盤とギターが静かになるまで、最後を残せる。
俺も声を終えると、さっきより大きな拍手が来た。二人を見てから客席へ頭を下げ、マイクへ戻った。
「ありがとうございます」
藤崎さんも手を叩き、森野さんはプログラムを椅子に置いたままこちらを見ていた。知らない人の手も動いているので、目を向ける場所に迷う。
七曲を全部歌った。
最初から最後まで、自分で並べた順番だった。礼を言い、二人の名前を紹介すると、小野さんが立って頭を下げ、石倉さんも客席へ礼をした。
俺ももう一度、頭を下げた。
*
「もう一曲!」
後ろから来た声に顔を上げると、手を叩く音が揃い始めた。小野さんへ目を向けると、笑ってうなずいている。
会場の端の植田さんも、まだ時間があるという合図を返した。それを見てからマイクへ戻ると、用意した短い曲の題名がすぐ浮かんだ。
「……ありがとうございます。さっき、自分で作った曲を、もう一度歌ってもいいですか」
拍手が返ってきたので、鍵盤へ向かえた。
(いいですか、って聞く声は、歌うときより細いな)
座って弾き始めると、一回目より客席を見やすかった。誰かがまた聞きたいと言ってくれたあとで、自分ももう一回歌える。
最初の言葉を入れると、三列目で藤崎さんの口元が動いた。鼻歌だった終わりだけでなく、あとから送った詞も、覚えていてくれたらしい。
隣の人も、途中の音に合わせて身体を動かしていた。そこを見て歌い、最後の言葉は、最初より少しゆっくり伸ばす。
小野さんが同じ音を長く残してくれたので、それが消えるまで弾き、手を離した。拍手を聞いて座ったまま礼をし、立つと、俺の最初の会が終わった。
*
舞台を下りると、植田さんが両手を合わせた。
「ありがとうございました。最後まで、聞いている人の顔がよく見えました」
礼を返す俺の横で、石倉さんがギターを置いた。
「最後の合図、よかったね」
「はい」
「自分の歌、もう一回やれてよかった?」
「……よかったです」
もう一回聞いてほしいと言った時間が、本当に来た。水を飲んでも、まだ少し声を出したくて、帰ってからの鍵盤まで考えている。
今日はここまで、と歌った本人が、そうなっていた。
(まあ、今夜も家では歌える)
小野さんが譜面を一枚返してくれた。自分の名前の下にある短い音を見て、家でもう一度弾きたくなり、鞄へしまった。




