第148話 俺が作った曲です
『午後の急行』の最初のサビで、前の席の人が顔を上げた。俺の短い言葉のあとにギターが鳴り、その音を聞いて、次へ声を入れる。
小野さんの鍵盤が軽く移るところで、客席の何人かも足先を動かした。同じところを聞いているのが見えると、俺も身体を少し前へ置いて歌えた。
声を強くし続けなくても、後ろへ響いていく。高くなるところだけ広げ、次の短い返事は近くへ戻すと、自分でも歌い分けたところが聞こえる。
二番も二人の音を聞いて進み、最後の言葉を短く切った。残った音が止まると拍手が来たので、マイクから離れて頭を下げる。
顔を上げる前に、次は挨拶だと思い出した。
「久瀬凪です。今日は、来ていただいてありがとうございます」
歌ったときより低く聞こえる声も、後ろへ届いていた。客席を見てから、次の言葉を続ける。
「俺が歌いたかったものを、七曲選びました」
そこで紙を一度見たが、次の題名は覚えていた。
(そっちは読まなくても言えるだろう)
「次は、最初に録音の仕事で歌った曲です。『ひとつ先の週末』」
石倉さんを見ると、合図を返して前奏を始めた。短い案内で聞く部分だけではなく、今日は最初から最後まで歌える。
小野さんの音が減るところへ、細い声を入れた。喉へ押し込まず静かなまま伸ばすと、前の席の人が、プログラムを膝へ下ろすのが見える。
さっき足を動かしていた客席が、今はあまり動かない。そこを見ながら息を取り、最後のサビは明るく開いた。
最初の仕事で、自分から歌いたいと頼んだところだった。短く録った部分を覚えているだけでなく、その手前の言葉も、今日は聞いてもらえた。
最後の音が消えるのを待って礼をし、次の『椅子をふたつ』では、森野さんのほうへ一度目を向けた。
目が合うとうなずいてくれたが、台詞は返ってこない。俺も芝居の入りを待たず、誰かが来るまで待っていたときの、柔らかい声から始めた。
客席へ顔を向け、来てくれた人を見つけるところで声を変えると、鍵盤も明るくなる。何度も一緒にやった歌で、今日の顔を見ながら選べることがあった。
終わって手を叩く森野さんへ頭を下げた。知っている人が来てくれたことを、ようやく歌の途中から、ゆっくり喜べていた。
*
マイクの前から鍵盤へ移り、椅子へ座った。客席の目も一緒に動いたので、手を置く前に顔を上げる。
ここまでは、前に仕事で歌ったものも入っていた。次の曲の作り方だけは俺が説明できるので、誰かの紹介を待たずに話したかった。
「次は、俺が作った曲です」
息を取った。紙へ説明を全部書いたわけではなかったが、どう作ったかは、自分がいちばん知っている。
「家で短い音を作っていて、そこへ言葉を付けました。仕事が終わって、家に帰ってから好きなことをする歌です」
最後の一行が少し早くなった。前の席で笑う人がいたので、俺も口元を緩め、もう一度息を取る。
「『休みの日』です」
鍵盤へ手を置いて弾くと、家で何度も鳴らした音が出た。そこへ自分で決めた言葉を入れて、最初の一行を歌う。
『靴をそろえて 今日はここまで』
鼻歌の録音では母音だけだったところへ、今日は自分で選んだ言葉を乗せている。短い音に詰めず、伸ばせるところまで待つと、次の言葉もはっきり歌えた。
声を近くへ置くと、歌にした部屋のことも浮かんだ。机に残るノートと、先に食器を洗えば、もう立たずに済むと思っていたことだ。
そのくらいのことを、今、聞いてもらっている。
一番の終わりへ小野さんが音を添えたので、俺は言葉の最後を残し、短い間を弾きながら顔を上げた。
三列目で、藤崎さんがこちらを見ていた。前は鼻歌で聞いてもらったものを、今日は詞付きで、しかも自分で弾きながら歌っている。
二番へ入っても指は止まらず、予定を詰めずに残した夜の言葉まで進めた。自分が好きな時間を歌うので、最後も、急いで切りたくなかった。
声を伸ばしてから指を離すと、小野さんの音も消えた。手を膝へ戻して顔を上げたところで、前だけでなく、後ろからも拍手が聞こえる。
座ったまま礼をし、顔を戻すと、後ろで手を叩いている人も見えた。知っている二人を探さなくても、自分の歌に拍手してくれる人がいる。
「ありがとうございます」
立ってからまた頭を下げた。そのあいだにも続く音を、すぐ次へ移って終わらせたくなかった。
(もう少し、このままでいてもいいな)
マイクの前へ戻る歩き方が遅くなったところで、通路側の席から声をかけられた。
「その曲、どこかで聞けますか」
その人の顔を見た。買える場所も公開した録音もなく、家で作った音は、聞いてもらった人たちへ送っただけだった。
「……まだ、どこにも出してなくて。今日、ここで歌うのが最初です」
答えると、その人はうなずいた。
「聞けてよかったです」
礼を返し、手をマイクへ戻した。もう一度聞ける場所を作りたくなったが、まずは、ここで待っている人へ残りの歌を歌いたい。
石倉さんのギターが、夜の曲の前奏を始めた。




