第147話 今日は、歌を聞きに来た人たち
日曜日の昼、家を出る前に鞄を開いた。曲目の紙と歌詞、水は入っていたので閉じかけたが、横にある鍵盤へ、もう一度目が向く。
今日は会場のものを使う。家の小さい鍵盤まで持っていく必要はなく、それが入る鞄を用意したわけでもなかった。
(今日は置いていけ。向こうでも弾けるんだから)
玄関で靴を履いて鍵を掛け、駅へ歩きながら最初の曲を頭の中で聞くと、終わったあとの挨拶も、今日は続けて思い出せる。
一時に『灯り舎』へ入り、三人で音を確かめた。空の客席へ声を出し、鍵盤と重なるところを歌い直す。
音を確かめてくれる人が前の席と後ろの席を行き来し、声を無理に大きくしなくてもよいよう、音量を合わせてくれた。
石倉さんのギターとも最初の一行を試し、それから鍵盤へ座った。椅子の高さを一段変えて手を置くと、金曜日に選んだ音がそのまま鳴る。
前奏から二行歌い、顔を上げたまま続きを弾いた。指は止まらず、小野さんが舞台の横でうなずいたので、もう一回やるのはやめた。
*
客席を開ける前に、机へ水と紙を置いて座った。石倉さんは弦を確かめ、小野さんは鍵盤の設定を見直している。
俺も何か確かめたくなったが、歌詞はさっき見たし、マイクも合わせてある。鞄のものまで出して並べても、やることは増えない。
水を一口飲んでから、曲目の紙だけ開いた。
「曲の順番、まだ替えたいものはない?」
石倉さんに聞かれ、七つの題名を追った。そこへ置きたくて選んだものばかりなので、今の順番のまま聞いてもらいたかった。
「ないです」
「じゃあ、それで」
その返事だけで、石倉さんはギターへ戻った。言った理由をもう一回説明する必要もなくなり、俺も紙を机へ戻す。
三時半になると、階段から話し声が上がってきた。植田さんが予約の名前を確かめているので、舞台の横から客席を見る。
すぐ前へ座る人も、全体を見てから後ろを選ぶ人もいた。一緒に来た二人がプログラムを開いているのを見て、もう曲目を読んでいるのかと思う。
森野さんを見つけると、こちらへ軽く手を上げ、近くの席へ座った。舞台で台詞を聞いていた人が、今日は客席にいる。
藤崎さんはそのあとに来て、三列目の通路寄りを選んだ。鞄を足元へ置くところまで見えたので、俺も手を上げる。
藤崎さんが笑ってプログラムを広げるのを見て、俺も客席から顔を戻した。見つけたら見るとは思っていたが、本当にすぐ見つけてしまった。
開演の十分ほど前に、植田さんが戻ってきた。
「今日は五十四人です。前から、きれいに入っています」
六十席のうち、五十四。
全部ではなくても、ほとんどの椅子に人がいた。何人もの手元に自分の名前のある紙が見え、初めに写真で見た空の部屋とは違っている。
(本当に、歌を聞きに来たんだな)
俺の案内から来た人も、ここで聞く会を楽しみにしている人も、今日は同じ七曲を聞く。植田さんが予定通り四時に始めると言ったので、音を確かめる用事はもう終わりにした。
*
石倉さんと小野さんが先に出ると、近くで拍手が起きた。二人がそれぞれの場所へ着いて待つのを見送り、俺は机の水を飲んだ。
喉が乾いていたわけではなかった。もう確認する用事がないので、口を動かせることを一つやりたくなっただけだ。
曲目は舞台で見えるところへ一枚置いてあるため、ここで持っていたほうを、机へ戻した。
(同じ紙を二枚持って出ても、歌える回数は増えない)
自分で少し笑いかけたところへ植田さんの合図が来たので、立って客席へ出ると、思っていたよりたくさんの顔が、こちらへ向く。
さっきは席を選んでいた人が、今は舞台を見ていた。俺がマイクの前に立つまで待っているのを見て、歩くのを止めずに真ん中へ向かう。
拍手を聞きながら真ん中へ立ち、頭を下げた。マイクへ手を置いてから二人を見ると、どちらもこちらを見て待っている。
息を吸ったところで最初の音が鳴り、『午後の急行』を歌い始めた。人前では今日が初めてでも、声は、出したかったところへまっすぐ届く。
最初の列へ届く声を聞きながら、その先の言葉も続けた。




