第146話 その一秒は、待ってください
金曜日の一時から、最後の合わせをした。実際の照明を使った舞台に立つと、明後日はここで歌うのだと、曲目を見なくても思い出す。
植田さんからもらったプログラムには、『久瀬凪 小さな歌の会』と、自分で選んだ七つの題名が同じ紙に収まっていた。
一枚を手元に置き、誤字を確かめてから鍵盤へ移った。『休みの日』で使う音を選び、最初の鍵を押して、家のものとの重さの違いを確かめる。
押す強さは少し変えたが、指の行き先には迷わなかった。声を入れて最後へ進み、小野さんが添える音の上へ、自分の最後の音を伸ばす。
伸ばす時間を変えると、その音も待って残った。指を離して顔を上げ、立って礼を言いながらマイクの前へ戻れば、客席へ背中を向けずに済む。
植田さんがうなずいたのを見て、次の曲へ進んだ。歌を終えたのを伝えるのに、大きな動きを足す必要はなさそうだった。
*
『空のグラス』の最後を、強く押さずに歌った。短い返事を残して鍵盤が消えると、石倉さんのギターから、次の曲の最初の音が出た。
俺はマイクを下げたまま、手を上げた。
「すみません。そこ、もう少し待ってもらっていいですか」
石倉さんが指を止める。
「前の曲の終わり?」
「はい。最後の声を、残したくて」
好きだった返事のあとに、もう次の前奏を聞いていた。あの言葉の終わりで、一秒くらいは客席のほうを見ていたかった。
水を飲むための間ではない。聞いている人にも、最後を聞いたままでいてほしかったので、次へ入る合図をこちらから出せないか話した。
小野さんが鍵盤から手を戻した。
「音を止めたあと、僕も待つ。久瀬くんがマイクを上げたら、次でいい?」
「お願いします」
同じ終わりを歌い直し、小野さんの音が消えてからも、すぐには顔を動かさなかった。客席を見たまま、今の言葉が終わったあとを待つ。
それからマイクを上げると、石倉さんの前奏が始まった。今度は、前の曲を終えてから、次の曲を聞き始められた。
その音へ入れた声で『手のひらのつづき』を進め、最後のサビの前では、前回決めた通り二人を見る。
待つ指を確かめて息を吸うと、三人で入り、さっきまで別々に聞いていた声と伴奏を、一緒に長く伸ばせた。
終わると、植田さんが拍手した。
「今の間、いいですね」
礼を返して、六曲目の終わりに印を付けた。
(待ってほしい、と言ってよかった)
最初から全部わかっている顔で黙るより、今聞いたものを伝えたほうが、俺が好きな終わり方へ変えられた。
「本番で拍手があったら、そのあとに、この間も残せばいい」
石倉さんが、使っていた紙へ書き足した。
「はい」
音が止まった瞬間から一秒と数えるのではなく、聞いている人の拍手を待つ。そう考えると、マイクを上げるときにも客席を見たかった。
石倉さんが、終了まで余裕があり、もう一曲求められた場合の歌も聞いた。曲目を見て少し迷ったが、俺は『休みの日』と答える。
「短いから?」
「……もう一回、聞いてほしいので」
小野さんが笑った。
「じゃあ、それで用意しておこう」
最初の七曲へは足さず、下へ小さく題名だけ書いた。その時間が来たら、もう一度鍵盤へ座っていいと、先に決めておく。
*
三時半すぎに合わせが終わり、当日は一時に入ることを植田さんと確かめた。音を確かめて、三時半に客席を開け、四時に始める。
明日の土曜日には歌う仕事を入れていない。家で声を出すにしても少しだけにして、あとは休むつもりだと伝えると、石倉さんもうなずいた。
「今日、もう決まったからね。明日は気になるところだけでいい」
鞄へプログラムを入れた。自分の会の紙なので置いて帰らずに済み、家でも開いて確かめられる。
夕方から店で勤務し、片づけた部屋のマイクを戻すと、藤崎さんが貸出用の充電を見ていた。
「明後日、行くね。予約もした」
俺はマイクを持ったまま顔を上げた。
「ありがとうございます」
「一番前だと気になる?」
気にならない、とまでは言えなかった。前でなくても、見つけたら見ると思うので、どこへ座ってほしいかを指定する言葉は出てこない。
「……聞きやすいところで、お願いします」
「了解。私のための席だからね」
藤崎さんは笑って充電のランプへ目を戻した。俺もマイクを置き、当日どこで見つけるかは、日曜日の楽しみに残しておいた。




