第144話 俺の声で、合図を返す
木曜日の二時、『灯り舎』の舞台で、右側の小野さんと左側の石倉さんを見た。一回目の合わせで真ん中に立つと、先日選んだ曲の順番が気になり始める。
この並びは初めてでも、二人の音は知っている。小野さんが最初の音を弾き、石倉さんが指で拍を取ったので、その動きを見て息を吸った。
『午後の急行』では、言葉を切るところへギターが入り、その先を鍵盤がつないだ。声を小さくしても音が続くので、短い返事まで全部を強くする必要がない。
サビだけ声を広げると、二人の音も大きくなった。気持ちよくて二番へ早く入りたくなったが、石倉さんの右手には、まだ半拍ぶん残っている。
そこを聞いて待ち、声を出すと、次の音へぴったり入れた。小野さんのほうを見ると、鍵盤を弾いたままうなずいている。
(今の、もう一回やりたい)
曲の途中なので戻れなかったが、そのあとも二人の音を聞き、次に待てるところを探しながら最後まで歌った。
マイクを下げ、そのまま二曲目へ行こうとしたところで、石倉さんの右手が止まった。
「挨拶、ここだったね」
「……そうでした」
初めの一曲が終わったら、名前を言う。メモにはあるのに、歌った本人が次も聞きたくなって、そこを飛ばそうとしていた。
(俺も客席に座りたい、みたいな顔をするな)
客席へ向き直ると、三列目で植田さんが聞いていた。その一人を見るだけなら言えると思い、マイクを上げる。
「久瀬凪です。今日は、来ていただいてありがとうございます」
いったん息を吐き、覚えていた次の言葉も続けた。
「俺が歌いたかったものを、七曲選びました」
石倉さんへ目を向けると、軽くうなずいて前奏を始めたので、今度こそ二曲目の歌い出しを待てた。
*
『ひとつ先の週末』の最後を伸ばすと、小野さんはすぐ次の音を入れずに、俺の息が終わるまで待った。
客席が静かになったのを聞いてから息を取り、『椅子をふたつ』へ進むと、今まで一緒にやった舞台も思い出した。
今日は、森野さんの台詞を待つところはない。それでも、待っていた人が来て嬉しくなるところは、最初の声から少しずつ変えられる。
小野さんが俺を見て、手元へ戻った。聞き慣れた伴奏から返ってくる小さな違いに合わせ、最後の一行を柔らかくして終える。
「前の二曲から、続いて聞くのがいいですね」
植田さんが拍手した。俺も途中でそう思ったが、歌うのを止めて言えなかったので、今は少し大きめにうなずいた。
自分の曲の前で鍵盤へ移ると、小野さんが横へ寄って場所を空けた。なくても歌えるが、短い詞を譜面台へ置いてから座る。
家で見ている言葉が前にあるほうが、最初は落ち着いた。
「これは、俺が作った曲です」
客席へ言ってから弾き始めると、家の小さい鍵盤より低い音がよく残ったので、それにつられて強く歌わず、近くへ話すくらいの声で入った。
一番を終えたあとに小野さんの細い音が入り、俺が決めた終わりの音の、少し上に残るのを聞いた。
そのまま短い間を弾き、二番で顔を上げた。植田さんは紙へ書かずにこちらを見ていたので、俺も手元へ目を戻さず、一行先まで歌う。
指は止まらなかった。
*
七曲を全部通すと、三十五分の枠より少し短く終わった。植田さんは、拍手が入っても収まりそうだと、見ていた時間を教えてくれた。
水を飲むと喉はまだ楽だったが、今聞いた音がいろいろ頭に残っていた。最後のサビを思い返していると、石倉さんも同じところへ印を付ける。
「最後の『手のひら』、あそこをもう少し待ちたいんだよね」
俺が好きだと言ったサビの手前だったので、紙を見ているだけでなく、二人を見ることも試したくなった。
「歌い始める前、俺から見ていいですか」
「うん。それを合図にしよう」
その部分をやり直し、前の声を終えてから二人を見た。石倉さんの手が次の音を出せるところで止まり、小野さんもこちらを見て待っている。
息を吸って顔を戻すと、俺の声と二人の音が入った。さっきまで聞いていた伴奏へ入るのとは違い、自分で入りたいところを伝えて始められた。
最後まで歌い切ると、石倉さんが笑った。
「今のでいこう」
「はい」
俺もそうしたかったので、譜面の印を確かめた。決まった秒数だけで入らず、二人が見てくれるところで歌える。
帰る前には、挨拶のメモへ名前と礼と七曲を書き足した。文章で行をいっぱいにするより、その三つが見つかるほうを選ぶ。
どんな順番で歌いたいかは、もう自分で決めていた。そのことなら客席を見て短く言えそうなので、メモを鞄へ入れた。
階段を下りるとコーヒーの匂いがして、喫茶の席が見えた。店の前へ出るまで、さっき顔を戻して歌い始めたところを、頭の中でもう一回やっていた。




