第139話 名前の下に、七曲ぶん
土曜日の二時、『灯り舎』の一階へ入ると、喫茶の席の奥に階段が見えた。上がった先で石倉さんを見つけ、その隣に小野さんもいるのがわかる。
「こんにちは」
頭を下げると、小野さんは軽く手を上げた。
「歌の会、面白そうだね」
「……はい」
もう話を聞いていたらしい。舞台で一緒にやった人が来ているのを見ると、俺一人で伴奏まで全部弾く相談ではない、と落ち着いて返事ができた。
(あの速さを両手で弾けと言われたら、別の相談になる)
扉の向こうには、写真で見た椅子が六列並んでいた。全部で六十席あり、前の列と舞台の間は、思っていたより狭い。
石倉さんが入口にいた女性を紹介してくれた。
「この会を担当する、植田さん」
「初めまして。実際の場所を見ていただきたくて」
植田さんに案内され、客席より二十センチほど高い舞台へ立った。後ろの椅子まで見渡して、もしあそこに人が座ったら、と顔の高さを考える。
六列とも、歌いながら見られそうだった。知らない人の目もこちらを向くのか、と気づくと、足を置く位置まで少し気になった。
「椅子は、この置き方で使います。鍵盤は右側へ。石倉さんのギターは、左でどうでしょう」
小野さんが右側を見てうなずき、石倉さんは俺へ顔を向けた。
「僕も弾く。あんまり歌う人の前には出ないつもり」
「……助かります」
「ギターが?」
「いえ。知っている人が、いてくれるのが」
言ってから、舞台の端へ目を落とした。音を聞いたことのある二人が両側にいるなら、どこへ声を渡すかも考えられる。
「それならよかった」
石倉さんが普通に返してくれたので、俺も顔を戻して、植田さんの持ってきた紙を受け取った。
候補日は、六週間と一日後の日曜日。午後四時から三十五分ほどで、月水金の勤務には重なっていない。
『くるり』の夜の広告は、その三週間前に公開される。休日の一本は公演の一週間後だから、歌う日を挟んで、佐野の俺も順番に出てくることになる。
「この日、行けます」
「ありがとうございます。二回の合わせと当日を含めて、久瀬さんへのお支払いは四万八千円です。翌日の振込にします」
指で日付を押さえたまま、下の金額を読んだ。小野さんと石倉さんへの依頼は主催側が別に行い、俺がこの額から二人へ渡すわけではない。
(そこを間違えると、喜ぶ順番が変わる)
四万八千円ともう一度確かめてから、正式な案内を送ってもらうことにした。曲も相談して返事をするので、今は空欄がたくさん残っている。
そこへ何を書くか考えようとしたところで、小野さんが鍵盤の前に座った。
「せっかく来たから、少し声を聞いてもいい?」
「はい」
渡されたマイクへ声を出すと、すぐ近くの空いた椅子のほうへ響いた。制作室と違って、声を止めたあとには、喫茶の食器が触れる音も小さく聞こえる。
押し出さなくても後ろへ届きそうだとわかったので、その距離に向かって、一度長く声を伸ばした。
「『椅子をふたつ』、途中からでいい?」
小野さんにうなずき、聞き慣れた伴奏へ入った。今日はレンの台詞から始まるわけではないので、歌い出しの言葉から、待っているときの声を選ぶ。
誰かが来て機嫌がよくなるところでは、語尾を柔らかくした。その声のあとに軽い鍵盤の音が入るので、次の言葉も同じようには伸ばさずに歌えた。
終わると、客席に座っていた植田さんが拍手した。
「今、後ろで聞きたくなりました」
立って最後の列へ移るのを見送り、俺はマイクを持ち直した。
(聞く人が遠ざかる褒められ方、初めてかもしれない)
そちらへ顔を向けて短いところを歌うと、今度は後ろの席からうなずく顔が見え、どこまで声を届けたいかがわかりやすかった。
*
歌い終えてから、自分で作った録音も聞いてもらった。前半に付けた詞を歌い、後半がまだ鼻歌に戻るところで、小野さんの指が鍵盤へ動く。
途中の音を拾い、最後の前で少し待ってから弾いたので、俺も録音の続きみたいに、その終わりを聞けた。
「ここ、急がなくていいね」
「はい。そこで、終わりたいです」
「じゃあ、後ろの音を足しすぎないようにしよう」
小野さんは、付けた音を減らしてもう一度弾いた。俺が家で決めた終わりについて、こんなふうに一緒に選んでもらえるとは思っていなかった。
「途中に置こうかな。初めから短い歌で、って紹介して」
石倉さんの言葉にうなずこうとすると、小野さんがこちらを見た。
「短いんですが、という言い方はしなくていいと思うよ。途中で終わっちゃったんじゃなくて、そこまでにしたい曲なんでしょう」
「……はい」
四十二秒のあとへ、少しだけ続きは付けたかった。三分に届くまで同じところを足したいわけではないので、最初から短い歌と言ってもらうほうが近い。
受け取った紙の曲名欄を見直した。ほかの人が作った歌と同じところへ、自分の曲も書いてもらいたくなった。
*
帰宅して出演案内を開くと、日付と時間は話した通りだった。二回の合わせは木曜日の午後と翌週の金曜日の午後で、金曜も夕方の勤務までに終わる。
予定と照らしてから、『ぜひ、出演したいです』と書いた。続けて、長い『手のひらのつづき』と『椅子をふたつ』を歌いたいことも伝える。
自分の曲も、仕上がれば入れたい。
その一行を足したところで、まだ全部できていないノートが目に入った。あとで言うこともできるのに、書いてしまうと消したくなかったので、そのまま送る。
承知したという返事が来て、公演の日が正式に決まった。スマホの予定へ自分の名前を入れると、今度は候補の歌う人ではなくなっている。
曲は七つまで入れられるので、ほかを選ぶ前に、まず一つを自分で埋めたかった。




