第137話 この先も、歌があります
火曜日の二時半、石倉さんの制作室へ行くと、靴を脱いでいる途中で聞き覚えのある音がした。『手のひらのつづき』の、あの三十秒の最後だった。
片方のかかとを浮かせたまま部屋の奥を見て、いつもならそこで終わる音の、次まで待ってしまった。
「ちょうどいいところに来たね」
振り向いた石倉さんに声をかけられて、残っていた靴も脱いだ。揃えてから入ると、机の前の椅子を勧められる。
(入口で最後だけ聞いて帰る人になるところだった)
日曜日に来た誘いを受けて聞きに来た長い版には、題名の下に、まだ歌ったことのない言葉がたくさん並んでいた。
「三分四十六秒。細かい音はもう少し変えるけど、一度最後まで聞いてみて」
「はい」
紙の中では前に録った部分をすぐに見つけられたのに、見本の声は、そこよりずっと前から歌い始めた。
柔らかい旋律が少しずつ上がり、知っているサビへ入りそうでまだ入らないので、歌い始めそうになる口を閉じて待った。
何度も歌ったところへ、こんな始まりから来るのか。
サビが聞こえると、声を出さずに口を動かした。息を取る場所まで知っている三十秒が過ぎ、いつもの最後の音が鳴る。
今度は、そこで止まらなかった。
鍵盤の短い音を挟んで新しい言葉が続いたので、俺は口を閉じて紙へ目を戻し、二番の歌い出しを聞いた。
違う歌詞を聞いてから同じサビへ戻ると、一番のときには次を待っていたところも、もう少し聞いていたかった。
最後の一回では声を伸ばすところまで変わり、その先の行を目で追っているうちに、椅子の背から身体が離れる。
ここ、歌いたい。
最後の鍵盤が消えたあと、紙のその行に指を置いていると、石倉さんは再生し直さずに俺を待っていた。
「どう?」
「……最後、好きです」
「最後のサビ?」
「その前から、です」
指を少し戻すと、石倉さんがうなずいた。
「そこ、久瀬くんに歌ってもらうつもりで作った」
俺が歌いたくなったところを、俺に歌ってもらうつもりで作ったと言われると、何か返したいのに、うまく言葉が出なかった。
(そういうことは先に言ってください。いや、今言われても嬉しいけど)
「歌ってみていいですか」
「もちろん。今日はそのために来てもらったから」
俺は紙を持って立ち、譜面を置く台の前へ移って、伴奏が流れる前に、一番の頭へ目を戻した。
聞いたばかりの言葉は紙で追い、サビの手前で息を取って、録音で何度も選んだ伸ばし方へ声を変えた。
そこは迷わず進めたのに、今日は次の歌詞も残っているので、間奏のうちに二番へ目を移して入り直した。
明るさを同じにすると、言っていることまで同じに聞こえそうで、一番より落ち着いた声を選んだ。
言葉の終わりを急がずに残すと、伴奏の短い音がそのあとへ入り、次に声を出すところまで待てた。
最後のサビでは、さっき聞いて欲しくなった音を自分で長く伸ばしても、次の言葉へ息を残しておける。
伸ばしきる前にわざと少し細くすると、最後の一行を歌い始めたところで、自分にも言葉がよく聞こえた。
伴奏が終わるまで待って机の前を見ると、石倉さんはこっちを向いて笑い、再生の位置を戻した。
「最後だけ、もう一回お願いしていい?」
「はい」
返事のほうが先に出た。頼まれたなら仕方ない、という顔を作る暇もなかった。
*
歌い終えて少し休むと、石倉さんが、低い舞台の前に椅子が六列並んだ小さな会場の写真を見せてくれた。
壁に付いた細い照明まで写っているので、顔を近づけ、舞台と一番前の椅子との間を確かめた。
「『灯り舎』っていうところ。歌を聞く会を作りたい、と相談されてて」
「……歌を聞く会」
「芝居は入れずに、一人の歌を三十五分くらい。久瀬くんで、一回やってみない?」
文化館の舞台から見た客席より近そうで、この距離なら、前の人がどんな顔で聞いているかもわかる気がした。
「俺の、ですか」
「うん。今までの歌も、新しい歌も。曲は一緒に選ぶけど、歌いたいものを久瀬くんから出してほしい」
膝の上で指を曲げ、机の譜面を見た。舞台ではレンとして歌い、広告では佐野の声を選んだ。どちらも、またやりたい。
でも、さっき最後のサビを歌ったときは、役の気分を考えずに、自分が出したいと思った音を選んでいた。
「これ、歌いたいです。最後まで」
紙を指すと、石倉さんは手元のメモへ題名を書いた。
「入れよう」
その横にある自分の名前を確かめてから写真へ戻ったのに、歌う人の欄が気になって、またメモを見てしまう。
鞄の中のスマホに入っている四十二秒を思い出した。藤崎さんの次には、この人にも聞いてほしかったものだ。
今、歌いたいものを出してほしいと言われている。
(今しかない、というほどではない。でも今言え)
「あの。俺が少し作ったものもあるんですが」
「曲?」
「短いです。歌詞は、まだなくて」
スマホを取り出し、鍵盤と鼻歌の録音を再生した。家で聞くときには短いと思わなかったのに、隣で誰かに聞いてもらっていると、終わりまでがすぐだった。
四十二秒で止まると、石倉さんは再生し直してほしいと言い、机を指で叩きながら、途中の二つの音を確かめた。
「この終わり方、いいね」
「……ありがとうございます」
そこは何度か選び直した場所だと伝えたかったが、スマホを持つ指に力が入り、うなずくほうが先になった。
「言葉、付けてみたくはない?」
「付けたいです」
今度はすぐ答えると、石倉さんは机にある三分四十六秒の譜面を見てから、俺のスマホへ目を戻した。
「じゃあ、やってみよう。全部を長い曲にしなくてもいい。一分くらいでも、ちゃんと終わる歌なら聞いてもらえる」
「一分でも、いいんですね」
「うん。好きなものを全部入れると、時間は足りなくなるけどね」
会場の写真を見直すと、『手のひらのつづき』を長く歌えるだけでよかったのに、自分の短い曲も入れたくなった。
(増えた。まだ依頼の返事もしてないのに)
具体的な日と条件は、会場を一度見てから決めることになった。帰る前に長い版の試聴用の音を送ってもらい、家で再生する。
知っている三十秒へ来るとつい一緒に歌い始め、その先の言葉も確かめながら、最後まで声を出せた。
サビの終わりが来ても、今日はもう止まらなかった。




