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第136話 この人、目の前にいます

 木曜日、広告の最初の八万八千円が入った。


 三枝さんへ受領の連絡を返し、口座の画面を閉じる。


 閉じてから、もう一度開いた。


 (変わってない。ちゃんとある)


 顔を撮られ、歌を録り、できたものを確認した。


 その仕事の代金だった。


 残りの二回分も支払日は決まっているが、まだ受け取ってはいない。全部使う予定を立てるのは早かった。


 ただ、今日の分で買いたいものは、いくつかあった。


 まず、鍵盤の置き場を何とかしたい。


 机の上を見ると、台本と鍵盤がまた半分ずつ場所を取っていた。


 昼に楽器店へ行き、持っている鍵盤の大きさと重さを伝えた。高さを合わせられる台を選び、六千六百円で買った。


 帰って組み立てると、机に台本を置いたまま、横で鍵盤を使えるようになった。


 俺は台本を開いてから、椅子の向きを変えて鍵を一つ押した。


 すぐに音が出る。


 (いい。いちいち、どかさなくていい)


 それだけのことを、もう一回試した。


     *


 日曜日の朝、三枝さんから公開の連絡が来た。


 送られた公式ページを開くと、佐野の朝の映像が載っている。


 再生すると、俺が靴下を探し始めた。


 最後まで見た。


 見終わってから、藤崎さんと相原さん、店長へページを送る。森野さんと小野さんにも、歌も自分が担当したことを添えた。


 送信を終え、出かける用意をする前に、もう一度見た。


 昼には、藤崎さんと駅前で会うことになっている。


 今日は二人とも、その時間には勤務がなかった。


 俺は、出かける前に自分の靴下を一足揃えた。


 すぐ見つかった。


 まだ収納箱は買っていなかったが、ここ数日は同じところへ戻すようにしていた。


 佐野の仕事をしている間に、少しだけ影響されたらしい。


     *


 『くるり』の店へ入ると、入口の横の画面は、別の商品の案内を流していた。


 藤崎さんと並び、少し離れたところから待つ。


「もう見た?」


「家では、見ました」


「何回?」


 俺は画面を見た。


 (朝の回数まで、聞かなくていいんですが)


「……二回です」


 藤崎さんが笑った。


 次の案内も、まだ俺のものではなかった。


 入口でずっと立っていると邪魔になるので、通路の脇へ寄る。


 近くには、広告で使った仕切り箱が並んでいた。


 色と大きさを見ていると、後ろから自分の声が聞こえた。


「あれ」


 俺は振り返った。


 画面の中で、佐野が椅子の下を見ていた。


     *


 店の中で聞くと、自分の台詞は思っていたよりよく通った。


 大きく怒ってはいない。


 ただ、急いでいるのに片方見つからない、という不満が聞こえる。


 前の晩に片づける手元へ変わり、翌朝には、すぐ履けるようになる。


 歌が入った。


 さっきまで歩いていた人が、商品棚の前で画面を見上げた。


 俺も、藤崎さんも黙っていた。


 佐野が少し休み、鞄を取って立つ。


 店名が出たところで、映像は次の案内へ変わった。


「最後、座っちゃうんだね」


 藤崎さんが、小さく言った。


「はい」


「久瀬くん、あれ好きそう」


「……好きです」


 そこは、隠す気にならなかった。


     *


 棚の前にいた人が、近くの店員へ声をかけた。


「今の箱って、これですか」


 店員が、別の段を指した。


「映像のものは、こちらの仕切り付きです」


 その人は蓋を開け、大きさを見ていた。


 買うかどうかは、まだわからない。


 それでも、三十秒見たあとに、品物へ手を伸ばしてくれた。


 俺は少し、嬉しくなった。


 自分の顔だけを見てもらう仕事ではなかったのだと、実際の棚の前でわかった。


 そのあと、その店員がこちらへ来た。


「大きさでお迷いですか」


「……いえ、少し見ていて」


 答えると、店員が俺の顔を見て止まった。


 画面のほうを見て、もう一度俺を見る。


「あの、今の映像に出ていらっしゃる方ですか?」


 背中が、少しだけ伸びた。


 (来た)


 自分から言うつもりはなかった。


 でも、聞かれるところは少し想像していた。


「……はい。そうです」


     *


「今日から流すので、朝みんなで見たんです。歌も、ご本人ですか?」


「はい。歌もです」


 そこは、少し早く答えた。


 店員は、声がきれいだったと教えてくれた。


 俺は礼を言った。


 短い返事だったが、かなり嬉しかった。


 藤崎さんは隣で、口元を緩めていた。


「ごゆっくり見ていってください」


 店員が売場へ戻ると、俺は箱の蓋を開けた。


 閉める。


 もう一度、仕切りを見る。


「嬉しかった?」


「……はい」


「今の返事は、わかりやすかった」


 藤崎さんが言った。


 俺は、箱を棚へ戻した。


 (もう一人くらい聞いてくれても、答えられるんだけど)


 そう思ったが、入口へ戻って待つほどではなかった。


 ほかの売場も見てから、店を出た。


     *


 帰り道、藤崎さんと駅まで歩いた。


「次は、夜の話なんだっけ」


「はい。四週間後です」


「また教えて」


 俺はうなずいた。


 もう撮ってある。


 歌も入っていて、見てほしい場面も決まっている。


 次を頼まれるかどうか待つだけではなく、自分が出るものの続きを、先に楽しみにできた。


 駅で別れ、家へ帰る途中に、石倉さんから連絡が来た。


『広告、見ました。あの歌い方にしてよかったね』


 俺も同じことを返した。


 少しして、もう一通届いた。


『前に歌いたいと言っていた「手のひらのつづき」、長い版を試しに作っています。火曜日、聞きに来ませんか。歌う場についても相談があります』


 足を止めそうになり、先に歩道の端へ寄った。


 三十秒で終わっていた、あの曲だった。


 前から続きを歌いたかった。


 火曜日の予定を開く。


 空いていた。


『行きたいです。何時ごろがよいですか』


 送ってから、スマホをしまった。


 六時ごろ、家の鍵盤で、自分の四十二秒をもう一度弾いた。


 途中で、佐野の朝の歌を口ずさみかけて、少し笑った。


 今日はどちらも歌いたかったので、自分の曲を終えてから、あの短い歌も最後まで歌った。


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