第134話 明日の分は、残してください
「それ、明日の」
俺が言うと、吉岡さんの箸が止まった。
木曜日、二度目の撮影だった。
台所の調理台には、二人が食べた皿と、まだ蓋をしていない保存容器がある。
吉岡さんが演じる友人は、夕飯を食べ終えている。それでも、横に残してあったものをもう一口もらおうとしていた。
「一個だけ」
「明日も、一個ほしいので」
そう返すと、吉岡さんが箸を引いた。
俺は追いかけて怒らず、蓋を取った。
友人が笑っている気配は残っている。少しだけそちらへ目をやり、自分も笑いかけたところで、声がかかった。
「はい、ありがとうございます」
川瀬さんが画面の向こうでうなずいていた。
*
料理は、撮影用に準備してもらったものだった。
俺は決まった量を器へ移し、容器の縁を汚さないようにした。
普段、家で作るときにもやっている動きなので、そこは困らなかった。料理の技能を初めて買った頃より、家でも調理台を散らかさなくなっていた。
今は、そこへ吉岡さんの返事が入る。
手元を見たまま台詞を待つだけでは、佐野の顔が画面から消えてしまう。
箸の動きを視界に入れ、相手を見る。
見返されたら、少しだけ不満そうにする。
蓋を閉める手も止めない。
演技を上げたことで、その細かな動きを、同時に扱いやすくなっていた。
顔だけ整えてから手を動かす必要がない。
言い返しながら、ちゃんと片づけていられた。
*
「もう一つ、お願いできます?」
三枝さんが画面を指した。
「最初は言わずに見ていて、取られそうになってから止める形も見たいです」
「はい」
吉岡さんと場所へ戻る。
小道具を置き直してもらい、始める合図を待った。
今度は、箸が伸びてきてもすぐには何も言わない。
残りを見る。
相手を見る。
本当に取るつもりらしいとわかってから、容器を少し自分のほうへ寄せた。
「それ、明日の」
同じ台詞を、さっきより静かに言う。
吉岡さんが箸を止めた。
俺は相手から目を外さず、蓋を手に取った。
「はい、そこまで」
止まる声のあと、吉岡さんが笑った。
「言われる前に、取ったら悪い気がしました」
俺も少し笑った。
(それは、本当に取られたくなかったので)
撮影の食事を持ち帰る話ではないが、あの瞬間は、かなり守りたかった。
*
確認用の画面で、二つの撮り方を続けて見た。
最初は、口で言い返す佐野。
二つ目は、友人が何をするか見てから、先に容器を寄せる佐野だった。
どちらも、同じ人には見える。
三枝さんは二つ目を選んだ。
「蓋を閉めたあとの顔まで使いたいです。品物もちゃんと見えるので」
川瀬さんが、後半をもう一度流した。
蓋を閉め終えた俺が、少し満足そうにしている。
そこへ、月曜日に録った歌が入った。
仮に合わせたものだったが、声の機嫌と顔が近かった。
俺は、思わず画面へ寄った。
(ああ、いい。これ、好きだ)
また見たいと思っているうちに、次の撮影へ移ることになった。
*
午後は衣装を替え、休日の場面を撮った。
友人が来たのに、椅子の上へ上着を置きっぱなしにしている。
佐野は「ちょっと待って」と言い、上着をどかした。
別の場所へ置きかけて、空いていた収納箱を見る。
そこへ入れる。
吉岡さんは座れるようになった椅子に腰を下ろし、俺が箱の蓋を閉じるところを見ていた。
「来る前にやれば?」
「……今、やった」
そう返したあと、俺も自分の椅子へ座る。
吉岡さんが、少し呆れたように笑った。
俺はその顔を見てから、そばのテーブルを少し相手へ寄せた。
来てもらったことは、嬉しい。
片づけるのが面倒だったのも、本当だった。
その二つを、同じ顔のまま出せた。
*
頼まれていた場面を終えると、時計は四時半だった。
手元だけの確認が残っていたが、役として動く部分は撮り切った。
吉岡さんが着替えに行く前に、俺へ声をかけた。
「さっき、待つ長さが変わっても、ちゃんと返してくれるの助かりました」
「こちらこそ」
「ちょっと長く見ても、佐野のまま見返してくるから。こっちも待てました」
俺はうなずいた。
何か、もう少し返したかった。
でも、撮影が止まってからのほうが、返事に時間がかかった。
(そこも少し、便利になってくれていいのに)
「……箸を引く前に、こっちを見てくれたので。返しやすかったです」
ようやく言うと、吉岡さんが笑った。
「俺もです。またお願いします」
握手ではなく、普通に頭を下げ合った。
そのくらいの別れ方が、今はちょうどよかった。
*
帰る前に、川瀬さんが三本分の確認予定を教えてくれた。
月曜日には、一度つながったものを見せてもらえる。
俺は、完成したら三本とも続けて見たいと頼んだ。
「もちろん。歌も全部入ります」
言われて、また嬉しくなる。
朝から始まって、夕飯を作り、休日に友人を部屋へ入れる。
その全部を、同じ佐野としてやれた。
俺は鞄を持って、撮った部屋をもう一度見た。
椅子の上にあった上着は、もう衣装のハンガーに掛かっていた。
自分の上着を間違えないように取り、部屋を出た。




