第133話 この声で、三本とも
月曜日の一時、石倉さんの制作室で、朝の佐野を見た。
先週撮ったものが、三十秒につながっていた。
まだ仮の音で、最後の店名も仮置きだと言われたが、探し物をする朝と、すぐに出かけられる朝の違いはわかった。
最後の佐野が、なかなか椅子から立たない。
俺は少し笑った。
(早く行けよ)
あのときは、できるだけ長く座っていたい顔をした。それが、きちんと残っていた。
「ここの歌、入れてみようか」
石倉さんが再生を止めた。
最後に佐野が鞄を取る、少し前だった。
*
マイクの前に立ち、イヤホンから来る伴奏を聞く。
『いつもの場所から』。
打合せで歌った短い旋律に、言葉が揃い、最後の伴奏も少し変わっていた。
俺はまず、一度最後まで歌った。
石倉さんが録ったものを、さっきの映像へ重ねる。
顔と声が一緒に流れた。
椅子に座っている佐野が、もうひと息休んでいるように聞こえる。
俺は画面へ顔を寄せた。
これが見たかった。
「最後、もう少し短くしてもらえる?」
石倉さんが言った。
「鞄を取る前に気持ちが切り替わる感じ。音程はそのままで」
「はい」
同じ部分へ戻してもらった。
くつろいでいる声で入り、最後の言葉を、少し早く離す。
石倉さんがもう一度合わせると、声が終わったあとに、佐野が立った。
休むところから出かけるところまで、つながって見えた。
「こっちがいいね」
「……俺も、こっちが好きです」
気に入ったものを、自分から言えた。
*
夜の分は、まだ撮影していない。
絵を並べた仮の映像に合わせて、歌うことになった。
台所に立つ佐野が、友人へ食事を出す。
できた料理を少し残し、明日の分を容器へ移す。
同じ旋律でも、朝より落ち着いた伴奏だった。
俺は歌い始めを、少し低い気分で出した。
仕事から帰って、面倒だと思いながら作った。それが思ったよりうまくできて、気分がよくなっている。
料理を褒めてもらいたい。
でも、全部食べられるのは困る。
そのくらいなら、考えやすかった。
「今の、もう一段だけ機嫌よくできる?」
「はい」
相手が一口食べて、うまいと言ったあとのつもりで歌った。
音を強くするより、言葉の終わりを少し軽くした。
石倉さんが二つを続けて聞き、後のものへ印を付ける。
「同じ人なのに、ちゃんと晩ごはんのあとだ」
俺は、少し口元を引き締めた。
(いい。もっと細かく言ってもらっても、たぶんできる)
人との雑談では、そんなふうに構えて待てない。
今は、次に何を求められるか楽しみだった。
*
休日の分では、友人を待たせながら片づける佐野になった。
やっと座る場所ができて、一息つく。
石倉さんは、少しだけ照れを入れてほしいと言った。
「人を呼ぶ前にやっておけばよかったんだけど、まあ、片づいたからいいか、って」
俺は、目の前の歌詞を見た。
自分の部屋を思い出してしまった。
鍵盤を置いた日に机が狭くなり、カップも台本も移した。そのあと箱は、しばらく床に残っていた。
(あれ、まだ畳んでないな)
歌い出す前に、余計な箱のことを忘れた。
少し照れたまま、でも機嫌よく。
一回録ってから、今度は言い訳を諦めた感じで歌ってみた。
石倉さんが、後のものをもう一度流した。
「これ、三枝さんにも聞いてもらいます。佐野、しゃべってなくてもどんな人かわかる」
俺は短く礼を言った。
歌だけ別の人にならずに済んでいた。
*
最後に、三本を順に聞いた。
朝、夜、休日。
同じ旋律なのに、少しずつ、気分が違っている。
石倉さんの伴奏も、そのたびに変わっていた。
俺の声だけで全部を説明しなくていい。映像で相手が動き、音楽が先へ進むところへ、必要な声を置けばよかった。
確認が終わると、まだ三時まで少しあった。
石倉さんが録音を保存しながら、俺を見た。
「鍵盤、どう?」
「……弾くの、楽しいです」
「よかった。曲も作ってるんだっけ」
「短いのが、少しだけ」
うまく言おうとすると、まだ大したものではないと続けそうになった。
でも、昨日録ったものは気に入っていた。
「もう少しできたら、聞いてもらいたいです」
「うん。時間あるときに送って」
聞いてもらえる相手が、もう一人増えた。
帰りの電車で、仕事の録音とは別の、自作のファイルを開いた。
まだ送らない。
今のところ、自分でも続きを聞きたかった。
六時の出勤までに食事を済ませようと、駅で降りてから歩く速さを少し上げた。




