第13話 当日の服
予選まで、あと一週間になった。
応募は今日で締め切りらしい。申し込みは済んでいるので、そちらに用事はなかった。
俺は部屋で、シャツを二枚並べていた。
服は、着ていて楽ならそれでよかった。買い足すときも、持っているものと似た色を選ぶ。合わせ方を考えなくて済むからだ。
それで困ったことは、あまりなかった。
片方は襟が曲がっている。もう片方には、胸に大きな文字が入っていた。普段なら洗ってあるほうを着るのだが、来週は舞台に立つ。
歌っている俺より、先にこの文字が目に入るのではないだろうか。
とりあえず、襟の曲がったほうを着た。
鏡の前で指を当て、少し押さえる。離すと、また戻った。
右手はマイクを持つ予定だ。左手まで襟を押さえるために使いたくない。
一枚、買おう。
スマホで口座の残高を確かめ、財布の中も見た。これからの部屋代と食費を残しても、無理な値段でなければ買える。
十万円もらったあとの買い物なら、もう少し気楽なのだろう。
(まだ一円ももらってないぞ。勝手に金持ちになるな)
シャツ二枚を畳み、出かける支度をした。
*
駅前の服屋へ入ると、白いシャツが入口近くに並んでいた。
一枚手に取り、値札を見て戻す。
隣の棚で、もう一枚見た。こちらも戻した。
何を着たいかより、買えるかどうかを調べるほうが先になっている。もう少し、色も見よう。
濃い灰色のシャツが目に入った。
無地で、前にボタンがついている。生地は今着ているものより少し薄かった。これなら普段も着られそうだ。
値札を返す。
二千四百九十円。
よかった。気に入ってから諦めなくて済んだ。
サイズを二つ手に取ると、店員さんが近づいてきた。
「よければ、試着できますよ」
「……お願いします」
「どちらからにします?」
いつも着ているほうのサイズを渡し、試着室へ入った。
カーテンを閉めて着替える。鏡を見ると、肩のあたりが余らず、裾の長さもちょうどよさそうだった。
襟も、ちゃんとしている。
それだけで、さっき家で着たものより人前に出やすそうに見えた。
右手をマイクの高さまで上げる。窮屈ではない。もう少し上でも、肩は引っ張られなかった。
「サイズ、いかがですか」
外から声がして、腕を下ろした。
「大丈夫そうです」
「肩のところ、きつくないですか?」
「はい。腕も上がるので」
カーテンを少し開けると、店員さんは肩の縫い目を確かめた。
「動きやすさなら、こちらでよさそうですね」
さっき何をしていたかは、聞かれなかった。試着中に腕を上げるのは、普通の確認なのだと思う。
鏡に向かってマイクを持つ姿まで試していたのは、黙っておいた。
「これでお願いします」
「ありがとうございます。何かで着られるご予定ですか?」
会計へ歩きながら聞かれた。
「歌うときに」
「ライブですか?」
「いえ。大会があって」
「そうなんですね。じゃあ、動きやすいほうがいいですね」
店員さんは、シャツをきれいに畳んだ。
大会の名前も説明したほうがいいだろうかと考えていたが、そこまでで話は終わったらしい。普通に支払って、袋を受け取った。
俺のほうだけ、歌うと言うのを大きな告白みたいに考えていた。
店を出て、袋の中を少し見た。
やっぱり、この色はいい。
家へ帰ったら、もう一度着てみよう。
*
シャツを家のハンガーに掛け、夕方の六時前にバイト先へ入った。
今日着ているのは、胸に文字があるほうだ。エプロンをつければ隠れるので、仕事には困らない。
ロッカーの前で靴を替えていると、藤崎さんが来た。
「久瀬くん、当日って何着る?」
「今日、シャツを買いました」
「あ、もう用意したんだ。どんなの?」
「普通の、灰色です」
買ったばかりで、けっこう気に入っている。
(普通の灰色って。ほかに言いようがあるだろ。家で写真まで撮ったくせに)
「写真ある?」
「はい」
家で撮ったものを見せた。ハンガーに掛けて一度離れ、もう少し明るいところへ動かしてから撮った写真だ。
見せる予定はなかったが、撮っておいてよかった。
「いいね。久瀬くんが着てるの、想像できる」
「……地味じゃないですか」
「そんなことないよ。似合いそう」
似合いそう。
そこは、今すぐ信じることにした。
「私も、最初はちょっと派手なほうがいいのかなって思ったんだけどね。落ち着かなくて。前から持ってるのにするつもり」
「藤崎さんも、迷いましたか」
「迷ったよ。照明が当たるとどう見えるかも、わかんないし」
照明。
俺は写真を見直した。
「それは、考えてませんでした」
「あ、ごめん。気にすること増やしちゃった」
藤崎さんが笑い、俺も少しだけ口元を緩めた。
これを着て行こう。色も好きだし、マイクを持つのに困らないことは試した。
店員さんの前で、腕まで上げて確かめたのだから。
*
店長が事務所から出てきて、シフトの紙を貼った。
「大会のある二週分ね。変更があったら、早めに教えて」
自分の名前を探す。
予選の日は休みだった。その一週間後、本選の日も空いている。
応募するときにお願いした二日分が、ちゃんと入っていた。
「合ってる?」
「はい。ありがとうございます」
店長は藤崎さんの欄も見てから、俺たちへ顔を向けた。
「いよいよ来週か。二人とも、頑張ってね」
「はい」
返事が重なった。
もう一度、本選の日を見る。休みにしてもらったときは、念のためという気持ちもあった。
今は、そこも歌いに行きたい。
今日のシャツは二回着られるし、『帰り道』も、本選なら一曲全部を歌える。
予選だけで終わるのは、もったいない気がしてきた。
フロントから客を迎える声がして、俺は靴ひもを結び直した。予約の客が来る前に、二部屋片付けなくてはいけない。
洗面台を拭き、グラスを戻す。部屋を出る前に忘れ物がないか確かめているうちに、舞台で何を着るかは、いったん頭から離れた。
休憩に入ってから、大会の締め切りの案内を見た。
応募のメールを開き、曲名を確かめる。
『帰り道』。
着るものも、歌うものも決まった。
弁当箱を開けると、煮物が片側へ寄っていた。汁は漏れていない。箸を取り、詰めたときより少し食べやすくなった隙間へ、ご飯を寄せた。
食事を終えたあと、スマホに一行だけメモを残す。
『シャツを窓から離す』
写真を撮るために、カーテンの近くへ掛けたままだった。気に入って買ったその日に、引っかけたくはない。
明日の朝も、もう一度くらいは見てしまうと思う。




