↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/174

第13話 当日の服

 予選まで、あと一週間になった。


 応募は今日で締め切りらしい。申し込みは済んでいるので、そちらに用事はなかった。


 俺は部屋で、シャツを二枚並べていた。


 服は、着ていて楽ならそれでよかった。買い足すときも、持っているものと似た色を選ぶ。合わせ方を考えなくて済むからだ。


 それで困ったことは、あまりなかった。


 片方は襟が曲がっている。もう片方には、胸に大きな文字が入っていた。普段なら洗ってあるほうを着るのだが、来週は舞台に立つ。


 歌っている俺より、先にこの文字が目に入るのではないだろうか。


 とりあえず、襟の曲がったほうを着た。


 鏡の前で指を当て、少し押さえる。離すと、また戻った。


 右手はマイクを持つ予定だ。左手まで襟を押さえるために使いたくない。


 一枚、買おう。


 スマホで口座の残高を確かめ、財布の中も見た。これからの部屋代と食費を残しても、無理な値段でなければ買える。


 十万円もらったあとの買い物なら、もう少し気楽なのだろう。


 (まだ一円ももらってないぞ。勝手に金持ちになるな)


 シャツ二枚を畳み、出かける支度をした。


     *


 駅前の服屋へ入ると、白いシャツが入口近くに並んでいた。


 一枚手に取り、値札を見て戻す。


 隣の棚で、もう一枚見た。こちらも戻した。


 何を着たいかより、買えるかどうかを調べるほうが先になっている。もう少し、色も見よう。


 濃い灰色のシャツが目に入った。


 無地で、前にボタンがついている。生地は今着ているものより少し薄かった。これなら普段も着られそうだ。


 値札を返す。


 二千四百九十円。


 よかった。気に入ってから諦めなくて済んだ。


 サイズを二つ手に取ると、店員さんが近づいてきた。


「よければ、試着できますよ」


「……お願いします」


「どちらからにします?」


 いつも着ているほうのサイズを渡し、試着室へ入った。


 カーテンを閉めて着替える。鏡を見ると、肩のあたりが余らず、裾の長さもちょうどよさそうだった。


 襟も、ちゃんとしている。


 それだけで、さっき家で着たものより人前に出やすそうに見えた。


 右手をマイクの高さまで上げる。窮屈ではない。もう少し上でも、肩は引っ張られなかった。


「サイズ、いかがですか」


 外から声がして、腕を下ろした。


「大丈夫そうです」


「肩のところ、きつくないですか?」


「はい。腕も上がるので」


 カーテンを少し開けると、店員さんは肩の縫い目を確かめた。


「動きやすさなら、こちらでよさそうですね」


 さっき何をしていたかは、聞かれなかった。試着中に腕を上げるのは、普通の確認なのだと思う。


 鏡に向かってマイクを持つ姿まで試していたのは、黙っておいた。


「これでお願いします」


「ありがとうございます。何かで着られるご予定ですか?」


 会計へ歩きながら聞かれた。


「歌うときに」


「ライブですか?」


「いえ。大会があって」


「そうなんですね。じゃあ、動きやすいほうがいいですね」


 店員さんは、シャツをきれいに畳んだ。


 大会の名前も説明したほうがいいだろうかと考えていたが、そこまでで話は終わったらしい。普通に支払って、袋を受け取った。


 俺のほうだけ、歌うと言うのを大きな告白みたいに考えていた。


 店を出て、袋の中を少し見た。


 やっぱり、この色はいい。


 家へ帰ったら、もう一度着てみよう。


     *


 シャツを家のハンガーに掛け、夕方の六時前にバイト先へ入った。


 今日着ているのは、胸に文字があるほうだ。エプロンをつければ隠れるので、仕事には困らない。


 ロッカーの前で靴を替えていると、藤崎さんが来た。


「久瀬くん、当日って何着る?」


「今日、シャツを買いました」


「あ、もう用意したんだ。どんなの?」


「普通の、灰色です」


 買ったばかりで、けっこう気に入っている。


 (普通の灰色って。ほかに言いようがあるだろ。家で写真まで撮ったくせに)


「写真ある?」


「はい」


 家で撮ったものを見せた。ハンガーに掛けて一度離れ、もう少し明るいところへ動かしてから撮った写真だ。


 見せる予定はなかったが、撮っておいてよかった。


「いいね。久瀬くんが着てるの、想像できる」


「……地味じゃないですか」


「そんなことないよ。似合いそう」


 似合いそう。


 そこは、今すぐ信じることにした。


「私も、最初はちょっと派手なほうがいいのかなって思ったんだけどね。落ち着かなくて。前から持ってるのにするつもり」


「藤崎さんも、迷いましたか」


「迷ったよ。照明が当たるとどう見えるかも、わかんないし」


 照明。


 俺は写真を見直した。


「それは、考えてませんでした」


「あ、ごめん。気にすること増やしちゃった」


 藤崎さんが笑い、俺も少しだけ口元を緩めた。


 これを着て行こう。色も好きだし、マイクを持つのに困らないことは試した。


 店員さんの前で、腕まで上げて確かめたのだから。


     *


 店長が事務所から出てきて、シフトの紙を貼った。


「大会のある二週分ね。変更があったら、早めに教えて」


 自分の名前を探す。


 予選の日は休みだった。その一週間後、本選の日も空いている。


 応募するときにお願いした二日分が、ちゃんと入っていた。


「合ってる?」


「はい。ありがとうございます」


 店長は藤崎さんの欄も見てから、俺たちへ顔を向けた。


「いよいよ来週か。二人とも、頑張ってね」


「はい」


 返事が重なった。


 もう一度、本選の日を見る。休みにしてもらったときは、念のためという気持ちもあった。


 今は、そこも歌いに行きたい。


 今日のシャツは二回着られるし、『帰り道』も、本選なら一曲全部を歌える。


 予選だけで終わるのは、もったいない気がしてきた。


 フロントから客を迎える声がして、俺は靴ひもを結び直した。予約の客が来る前に、二部屋片付けなくてはいけない。


 洗面台を拭き、グラスを戻す。部屋を出る前に忘れ物がないか確かめているうちに、舞台で何を着るかは、いったん頭から離れた。


 休憩に入ってから、大会の締め切りの案内を見た。


 応募のメールを開き、曲名を確かめる。


 『帰り道』。


 着るものも、歌うものも決まった。


 弁当箱を開けると、煮物が片側へ寄っていた。汁は漏れていない。箸を取り、詰めたときより少し食べやすくなった隙間へ、ご飯を寄せた。


 食事を終えたあと、スマホに一行だけメモを残す。


『シャツを窓から離す』


 写真を撮るために、カーテンの近くへ掛けたままだった。気に入って買ったその日に、引っかけたくはない。


 明日の朝も、もう一度くらいは見てしまうと思う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。