第126話 歌も、俺にください
木曜日の朝、上映会の謝礼一万円が振り込まれた。
受け取った返事をしてから、打合せ用の紙を鞄へ入れる。家を出る前に、もう一度取り出して中身を見た。
入れたのは、今だった。
(まだなくなってないだろ)
紙を戻して、鞄を閉めた。
*
制作の事務所には、窓際に大きなテーブルがあった。
川瀬さんの隣へ座ると、向かいの女性が企画書を開いた。三枝さんという、今回の広告をまとめている人だった。
石倉さんはノートパソコンを置き、俺へ軽く手を上げた。
「お店は『くるり』です。収納用品とか、台所で使うものとか、見たことあります?」
「はい。駅の反対側の店なら」
「あそこも同じお店です」
入ったことがある店だった。広告の中に出ていた収納箱も、売場に並んでいた気がする。
三枝さんが、主人公の書かれたページをこちらへ向けた。
会社員の佐野。
一人暮らし。片づけは得意ではないけれど、面倒なことは減らしたい。
早く家を出たいというより、ぎりぎりまで家にいたい。
俺は、最後の一行を読んだ。
(そこは、よくわかる)
役の気持ちを調べるために、特別な勉強は要らなそうだった。
*
映像は、一本三十秒で三本。
最初は朝の支度。次は帰ってからの食事。最後は休日の片づけだった。
同じ男の暮らしを、四週間ずつ空けて見せていく。
「片づけが上手な人の、完璧な生活にはしたくなくて」
三枝さんが言った。
「使ったら少し楽になった、くらいの人にしたいんです。さっきまで慌ててたのに、余裕ができるとすぐ座っちゃうような」
川瀬さんが、朝の最後の絵を指した。
両足に靴下を履いた佐野が、時計を見ている。
時間が余ったので、椅子に座る。
俺は、その絵が好きになった。
早く出たほうがよさそうだけど、本人はそうしない。余った時間は、自分が使いたい。
「この人の声で、歌ってみたいです」
思ったより早く、言葉が出た。
全員が、俺を見た。
(ここから説明が要るぞ)
机の端の紙を見て、続けた。
「誰かに、ちゃんと片づけましょうって言うより。本人が、ちょっと楽になって、歌ってる感じで」
石倉さんが、音源の画面を開いた。
「一回、試してもらおうか」
*
大きなマイクを立てるほどの準備ではなかった。
机の小さなスピーカーから伴奏が流れ、俺は椅子に座ったまま、送ってもらった部分を歌った。
一度目は、いつもの明るい声にした。
音程を揃え、言葉が聞こえるように、最後をきれいに収める。
石倉さんはうなずき、同じところへ戻した。
「じゃあ今度、佐野がもう座ってるつもりで」
俺は、さっきの絵を見た。
探し物をしなくてよくなって、出かける前に少し休める。
声を張りすぎず、最初を楽に出した。最後の音だけ、もう少しそこにいたそうに残す。
投げやりにはしない。機嫌は、かなりいい。
歌い終えると、三枝さんが隣の川瀬さんを見た。
「こっち、好きです」
「役が続いてる感じ、ありますね」
川瀬さんも答えた。
俺は二人を見ないように、歌詞の紙へ目を落とした。
(もう一回くらい、言ってもらってもいい)
紙の文字は、さっきから同じところを読んでいた。
*
歌のあとに、短い台詞も試した。
片方だけ見つからない朝の「あれ」と、翌朝すぐに見つかった「あった」。
使う言葉は、それくらいだった。
物を探す目の動きと、声の出る順番を少し変えた。見つけたほうでは、相手に知らせるのではなく、自分だけが納得した声を出す。
川瀬さんが笑った。
「今の、靴下ありましたね」
実際にあるのは、机の下の俺の両足だった。
今日は、両方履いてきている。
三枝さんが企画書を閉じた。
「芝居も、歌も、久瀬さんにお願いしたいです。この形で、条件を送らせてください」
「……ありがとうございます」
膝に置いていた手を、少し握った。
言ってみてよかった。
歌うほうが別の人になっても仕事はしたかった。でも、どちらも自分でやりたかったので、今の返事はかなり嬉しい。
*
残りの時間で、撮影の候補日を聞いた。
木曜日を二回と、別の日に歌の録音。
正式な日程と使う範囲は、明日送られてくる書面で確認することになった。
金額も聞いた。
三本の出演と歌を合わせ、交通費込みで二十六万四千円。
俺は、その数字を紙に書いた。
書いてから、もう一度見た。
「分けてのお支払いになります。それも明記しますね」
「はい」
うなずくと、三枝さんは、日程を落ち着いて確認してくれて助かると言った。
数字の最後に、円と足した。
(今は、金額を覚えてるところです)
候補日も忘れないよう、その下へ書く。
どちらも、俺には大事だった。
*
帰りの駅で、川瀬さんと別れた。
改札へ入る前に、鞄を開く。もらった資料は、朝の紙と一緒に入っていた。
自分で書いてきた、歌について、という項目が見える。
その横へ、芝居も、と足したくなった。
人が通るので、先に改札を抜ける。
電車に乗ってから、スマホの予定を開いた。
まだ正式な返事をする前なので、撮影候補、と入れた。
家へ着いたら、送ってもらった音をもう一度聞こうと思った。
椅子に座ったまま、今日選んでもらえた声を、また出してみたかった。




