第115話 まだ題名のない曲
日曜日の午後、久しぶりに市民センターの階段を上がった。
相原さんはギターを背負い、藤崎さんは飲み物の入った袋を持っている。
前に来たときも、この順番で歩いた気がした。
音楽室の扉を開けると、佐伯さんが鍵盤の前から手を振った。
「久しぶり。元気だった?」
「はい」
「今日は時間、大丈夫なんだってね」
相原さんが伝えてくれていたらしい。
前は、終わったあとに勤務があった。
「……今日は、休みです」
言ってから、少し嬉しくなった。
四時で音楽室の時間は終わるけど、そこから急いで店へ行かなくていい。
俺は椅子に鞄を置いた。
いつもの六人が揃うと、相原さんがギターを出した。
*
最初に、佐伯さんが歌った。
『四月の傘』の、好きだった二番が聞こえてくる。
俺は膝の上に手を置いて聞いた。
家で鍵盤を少し触ったせいか、今日は手元も気になった。
佐伯さんは歌いながら、次の音へ指を移している。
指が動く間も、歌は続いていた。
自分が一つずつ音を探していたことを思い出す。
(両方やるのか。忙しいな)
でも、聞いていると気持ちよかった。
最後の音を少し変えて歌い終えるところも、やはり好きだった。
*
藤崎さんは、『青いスニーカー』を選んだ。
前に一緒に録音したときより、最初の言葉がはっきり聞こえた。
楽しそうに歌い始めて、サビの高いところでは少し顔を上げる。
俺のほうを見たわけではない。
それでも、聞いてもらおうとして歌っているのはわかった。
終わって拍手をすると、藤崎さんが笑った。
「最初、急がなかった」
「はい。聞きやすかったです」
「そこ、今日はやろうと思ってた」
隣へ戻ってきて、小さく言う。
俺はもう一度うなずいた。
次は、俺の番だった。
*
相原さんのギターに合わせて、『帰り道』を歌った。
いつもの客席より、聞いている人が近い。
声を大きくしなくても、全員に届く距離だった。
最初の一行を、少し柔らかく出す。
相原さんが、その声に合わせて弦を鳴らした。
家で何度も歌うところも、伴奏が変わると、次へ行くのを少し待ちたくなる。
今は、その間に息を足さずに済んだ。
言葉の終わりまで声を置き、相原さんの次の音を聞く。
最後まで歌い終えると、眼鏡の男性が手を叩いてくれた。
「いいなあ。あの伸ばすところ」
「……ありがとうございます」
「今度、あそこだけもう一回聞かせて」
「はい」
それなら、何度でも歌いたかった。
(その頼みなら、早いです)
椅子へ戻る前に、もう一度相原さんを見た。
相原さんが笑い、あとでやろうと言ってくれた。
*
全員が一曲ずつ歌ったあと、佐伯さんが鍵盤の音を小さくした。
「ちょっと、これも聞いてもらっていい?」
短い旋律を弾く。
一度聞くと、もう一度聞きたくなるような、上がったあとで少し戻る音だった。
そこまで弾くと、佐伯さんが手を止めた。
「まだ、ここまでしかなくて」
「今の、何ていう曲ですか」
俺が聞くと、佐伯さんはこちらを見た。
「私が作ったやつ。名前も、まだないの」
俺は、鍵盤を見た。
今のは、佐伯さんが自分で音を選んだものだった。
「もう一度、いいですか」
「もちろん」
今度は弾きながら、歌詞のない声を添えてくれた。
短いところで終わる。
俺は小さく、その終わりをなぞった。
ここから別の音へ進めそうだった。
でも、今の終わり方のまま、少し待ってもよさそうだった。
どちらを選ぶのか、本人が決められる。
それが、少し羨ましかった。
*
片付けのとき、買った鍵盤の話をした。
「小さいのを、この前買って」
「お、いいね。弾きながら歌う?」
相原さんに聞かれ、少し考えた。
「……まだ、そこまでは」
家では片手の指を一本ずつ使っている。
歌うところまで足したら、止まりそうだった。
「音を出すのが、面白くて」
「それでいいんじゃない。思いついたの、録っとくといいよ」
佐伯さんが言った。
「あとで弾こうと思ったら、わかんなくなるから」
俺はうなずいた。
今日聞いた短い旋律は、まだ思い出せた。
自分も、ああいうものを一つ作れたら、何度も聞くだろうと思った。
*
四時に音楽室を出た。
駅へ向かいながら、藤崎さんが、少しお茶を飲んでいかないかと言った。
相原さんは行けると答え、俺も、行きたいと伝えた。
勤務の時間を確かめなくてよかった。
店に入り、席へ座る。
メニューを開いてから、さっきの曲を小さく思い出した。
佐伯さんが選んだ最後の音が、まだ残っていた。
俺なら、次はどうするだろう。
「久瀬くん、何にする?」
藤崎さんに聞かれ、顔を上げた。
メニューは開いたのに、何も見ていなかった。
「……アイスコーヒーで」
メニューを閉じた。
家へ帰ったら、鍵盤の前でもう少し考えてみたかった。




