第113話 歌も、聞いてもらえた
日曜日、午後五時の客席に、田辺さんがいた。
三列目の、通路から二つ目。
手を振るわけにもいかず、俺は相手役の森野さんへ顔を戻した。
今はレンだった。
昼の公演を終え、少し休んで、今日二度目の舞台に立っている。これから、部屋を片付けようとするソウへ、あと少し歌を聞いてくれと頼む。
小野さんが鍵盤を弾き始めた。
息を吸う。
田辺さんには映画の撮影で何度も声を聞かれている。でも、生で歌うところを見てもらうのは初めてだった。
今の声を、ちゃんと聞いてほしかった。
*
最初の曲を歌い始めると、いつもの出し方で声が伸びた。
昼にも歌ったところだから、途中でどんな息を使うかはわかっている。
力を足しすぎず、奥の席まで届ける。
森野さんが片付けの手を止め、椅子へ腰を下ろした。
レンは、それを見て少し嬉しくなる。
俺も嬉しかったので、顔を作るのは楽だった。
ただ、客席へ向かって笑いすぎないようにする。聞いてほしい相手は、今はソウだった。
歌の終わりまで、森野さんを見ていた。
小野さんの最後の音が消える。
拍手が聞こえた。
俺は一度息を吐き、次の台詞を待った。
最初の曲だけ、もう一回歌いたくなった。
(戻るな。まだ先がある)
*
本編を終え、番外の短い場面へ進んだ。
今度は、レンが椅子を二つ用意している。
ソウにやってもらうつもりだった最初の頃から、少し変わったところだった。
俺が先に椅子へ手を掛けると、森野さんがこちらを見た。
「珍しいな」
俺は椅子を置いて、少し不満そうに見返す。
客席で笑う声がした。
大げさに否定する台詞はない。置いた椅子の背を一度だけ直してから、相手の座る場所を空ける。
小野さんが、次の曲へ入った。
『椅子をふたつ』。
この曲も、聞いてほしかった。
途中で森野さんが台詞を返すところでは、歌を急がず待った。
ソウが答える。
レンは、次も来てくれることが嬉しい。
そのまま歌を続け、最後の言葉まで声を残した。
*
昼と夕方の二公演を終えた。
片付けをしていると、安西さんが、田辺さんが外で待っていると教えてくれた。
俺は椅子を運び終えてから、廊下へ出た。
「お疲れさま」
「……ありがとうございます」
田辺さんはパンフレットを持っていた。
そこに載っているのは、宮下ではなくレンの名前だった。
「最後の曲、よかった。椅子、自分で出すようになるんだね」
「はい」
「歌も、全部ちゃんと聞こえた。小さい声のところまで」
俺はうなずいた。
何と返せば嬉しさが伝わるのか、考えた。
その間に、田辺さんが続けた。
「生で聞くと、あそこ、もう少し続いてほしくなるね」
「俺もです」
今度は、すぐに返事が出た。
田辺さんが少し笑う。
「歌ってるほうも?」
「……はい。好きなので」
やっと言いたかったことに近い返事ができた。
あと一曲くらいなら、まだ歌いたかった。
*
森野さんも廊下へ出てきたので、二人を紹介した。
田辺さんが由衣を演じていることを伝えると、森野さんは映画を楽しみにしていると言った。
「久瀬くん、そっちでも待たせる役?」
「少し」
「私は、かなり待たされた」
田辺さんが答えた。
森野さんは笑って、俺を見た。
(本人までそういう扱いにしないでください)
何か言おうとしているうちに、小野さんも来た。
話は、最後の曲の鍵盤へ移った。
小野さんは、台詞の入るところを森野さんと合わせた話をしていた。田辺さんも自分の舞台の話を返す。
俺は三人の横で聞いていた。
映画の現場で会った人が、いつもの二人と話している。
また何か一緒にできたら、面白そうだった。
とりあえず、今日は歌を聞いてもらえた。
それが嬉しくて、田辺さんが帰るとき、俺からもう一度声をかけた。
「来てくれて、ありがとうございました」
「うん。誘ってくれてありがとう」
手を振られ、少しだけ振り返した。
廊下へ戻ると、森野さんが椅子を一脚持っていた。
「よかったな」
「はい」
今は、短い返事でも十分だった。
隣の椅子を持ち上げ、残っていた片付けへ戻った。




