↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
113/179

第113話 歌も、聞いてもらえた

 日曜日、午後五時の客席に、田辺さんがいた。


 三列目の、通路から二つ目。


 手を振るわけにもいかず、俺は相手役の森野さんへ顔を戻した。


 今はレンだった。


 昼の公演を終え、少し休んで、今日二度目の舞台に立っている。これから、部屋を片付けようとするソウへ、あと少し歌を聞いてくれと頼む。


 小野さんが鍵盤を弾き始めた。


 息を吸う。


 田辺さんには映画の撮影で何度も声を聞かれている。でも、生で歌うところを見てもらうのは初めてだった。


 今の声を、ちゃんと聞いてほしかった。


     *


 最初の曲を歌い始めると、いつもの出し方で声が伸びた。


 昼にも歌ったところだから、途中でどんな息を使うかはわかっている。


 力を足しすぎず、奥の席まで届ける。


 森野さんが片付けの手を止め、椅子へ腰を下ろした。


 レンは、それを見て少し嬉しくなる。


 俺も嬉しかったので、顔を作るのは楽だった。


 ただ、客席へ向かって笑いすぎないようにする。聞いてほしい相手は、今はソウだった。


 歌の終わりまで、森野さんを見ていた。


 小野さんの最後の音が消える。


 拍手が聞こえた。


 俺は一度息を吐き、次の台詞を待った。


 最初の曲だけ、もう一回歌いたくなった。


 (戻るな。まだ先がある)


     *


 本編を終え、番外の短い場面へ進んだ。


 今度は、レンが椅子を二つ用意している。


 ソウにやってもらうつもりだった最初の頃から、少し変わったところだった。


 俺が先に椅子へ手を掛けると、森野さんがこちらを見た。


「珍しいな」


 俺は椅子を置いて、少し不満そうに見返す。


 客席で笑う声がした。


 大げさに否定する台詞はない。置いた椅子の背を一度だけ直してから、相手の座る場所を空ける。


 小野さんが、次の曲へ入った。


 『椅子をふたつ』。


 この曲も、聞いてほしかった。


 途中で森野さんが台詞を返すところでは、歌を急がず待った。


 ソウが答える。


 レンは、次も来てくれることが嬉しい。


 そのまま歌を続け、最後の言葉まで声を残した。


     *


 昼と夕方の二公演を終えた。


 片付けをしていると、安西さんが、田辺さんが外で待っていると教えてくれた。


 俺は椅子を運び終えてから、廊下へ出た。


「お疲れさま」


「……ありがとうございます」


 田辺さんはパンフレットを持っていた。


 そこに載っているのは、宮下ではなくレンの名前だった。


「最後の曲、よかった。椅子、自分で出すようになるんだね」


「はい」


「歌も、全部ちゃんと聞こえた。小さい声のところまで」


 俺はうなずいた。


 何と返せば嬉しさが伝わるのか、考えた。


 その間に、田辺さんが続けた。


「生で聞くと、あそこ、もう少し続いてほしくなるね」


「俺もです」


 今度は、すぐに返事が出た。


 田辺さんが少し笑う。


「歌ってるほうも?」


「……はい。好きなので」


 やっと言いたかったことに近い返事ができた。


 あと一曲くらいなら、まだ歌いたかった。


     *


 森野さんも廊下へ出てきたので、二人を紹介した。


 田辺さんが由衣を演じていることを伝えると、森野さんは映画を楽しみにしていると言った。


「久瀬くん、そっちでも待たせる役?」


「少し」


「私は、かなり待たされた」


 田辺さんが答えた。


 森野さんは笑って、俺を見た。


 (本人までそういう扱いにしないでください)


 何か言おうとしているうちに、小野さんも来た。


 話は、最後の曲の鍵盤へ移った。


 小野さんは、台詞の入るところを森野さんと合わせた話をしていた。田辺さんも自分の舞台の話を返す。


 俺は三人の横で聞いていた。


 映画の現場で会った人が、いつもの二人と話している。


 また何か一緒にできたら、面白そうだった。


 とりあえず、今日は歌を聞いてもらえた。


 それが嬉しくて、田辺さんが帰るとき、俺からもう一度声をかけた。


「来てくれて、ありがとうございました」


「うん。誘ってくれてありがとう」


 手を振られ、少しだけ振り返した。


 廊下へ戻ると、森野さんが椅子を一脚持っていた。


「よかったな」


「はい」


 今は、短い返事でも十分だった。


 隣の椅子を持ち上げ、残っていた片付けへ戻った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。