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第112話 今度は、宮下の顔で

 木曜日の撮影は、由衣の顔を近くから撮るところから始まった。


 俺はカメラに入らない側で、宮下の台詞を言う。


 田辺さんは、昨日と同じところへケースを置いた。


 弁当を出し、少しだけこちらへ寄せる。


 弟を探して歩いたあとだから、早く荷物を渡したい。


 それでも、机の端から落ちそうな位置には置かなかった。


 俺は、その手が離れるのを見てから口を開いた。


「連れ戻すんじゃ、ないんですか」


 田辺さんが、俺を見る。


 返ってきた声は、怒っていた。


 でも、俺を責めるための話ではなかった。


 本人に言いたいのだとわかると、こちらから電話をかけたくなった。


     *


 次は、俺のほうへカメラが来た。


 カウンターから田辺さんを見る位置を確かめ、スマホを持つ。


 片山が電話に出るまで、由衣が待っている。


 呼び出している間、画面を見たり相手を見たり、せわしなく動くこともできる。


 でも、宮下はまだ、そんなに慌てていない。


 出れば話が進むと思っている。


 だから、一度目がつながらずに終わったところで、少しだけ顔をしかめた。


 田辺さんが、こちらを見る。


 もう一度かける。


 ようやく、片山が出る。


「今、姉ちゃんが」


「言わないでって、頼んだだろ」


 画面の外で、相手の台詞が返ってくる。


 俺は目を細くし、言い終わるのを待った。


「まだ言ってない。包丁、忘れてるって」


 少しだけ、強い声が出た。


 ここは姉に愛想よく接客していたときより、素直に面倒だと思っていい。


 友人へ話す声に戻ると、自分でも言いやすかった。


 返事を聞いてから、弁当のことも伝える。


 片山が黙る。


 俺は次を急がず、カウンターの荷物を見た。


 田辺さんは、こちらの顔から何か読み取ろうとしていた。


 電話の向こうで、姉に代わってくれと言われる。


 俺はうなずいて、スマホを耳から離した。


「……はい」


 短く言って、田辺さんを見る。


 すぐには受け取ってもらえなかった。


 手を伸ばしたまま、待った。


 田辺さんがスマホを持つ。


 指を離す。


 由衣の声が、弟へ向いた。


     *


「はい、カット。今の、いいです」


 川瀬さんの声で、田辺さんがスマホを下ろした。


 俺も肩の力を抜く。


 撮りながら、自分でも、もう一度見たいと思っていた。


 電話に出た友人へ、少しだけ文句の混じる声になるところ。


 代われと言われてから、姉の顔を見るところ。


 読み合わせで変えてもらった短い台詞が、ちゃんと使えた。


「久瀬さん、確認します?」


「見たいです」


 早く答えすぎた気がした。


 でも、川瀬さんは普通に画面をこちらへ向けてくれた。


 (聞かれたんだから、いいだろ)


 俺はカメラの横へ寄った。


     *


 画面の中の俺は、友人に腹を立てていた。


 それを姉へ向けてしまわないように、電話を渡す前に顔を戻している。


 ただ、最初の愛想のいい笑い方には戻っていない。


 もう、何も知らない店員のふりを続ける必要はなかった。


 自分でやったことなのに、画面で見ると、ほかの人が店に立っているように見えた。


 田辺さんが、隣からのぞいた。


「そこで、ちょっと怒るの、いいね」


「……ありがとうございます」


「困ってるのに、亮には言い返せるんだよね。この人」


 俺はうなずいた。


 もう一回流してもらいたかった。


 ただ、次の準備が進んでいたので、画面の前から離れた。


 (あとで、完成したのを何回でも見よう)


 早くその日が来てほしかった。


     *


 午後には、二人の手元や店の入口を撮った。


 最後は、由衣が荷物を持ち直して出ていく場面だった。


 電話で弟と話し、会って渡せることになった。


 由衣は、借りていたスマホを俺へ返す。


「ありがとう」


「いえ」


 ケースと弁当を、袋へしまうのを手伝う。


 由衣が持ち上げたあと、俺の手元には何も残らなかった。


 そのまま店を出ようとした田辺さんへ、声をかける。


「傘」


 田辺さんが足を止め、入口の傘立てを見る。


「……忘れるところだった」


 宮下として、小さく笑う。


 傘を取った由衣を見送り、カウンターへ戻った。


 閉店まで、あと少し。


 紙袋を揃え直しながら、さっき友人へ怒った声を思い出す。


 戻ってきたら、今度はきちんと何を頼むのか、全部聞いておこうと思った。


 川瀬さんの声がかかるまで、そのまま片付けを続けた。


     *


 夕方四時四十分、俺の撮影がすべて終わった。


 川瀬さんが、二日間ありがとうございましたと言った。


 スタッフが拍手をしてくれる。


 俺は何度か頭を下げた。


 どちらを向けばいいかわからず、最後はエプロンの紐を触っていた。


 (外すのは、あとだ)


 田辺さんも撮影を終え、隣へ来た。


「お疲れさまでした。次、いつ見られるんでしょうね」


「二週間後くらいに、一度つないだものを見てもらえるようにします」


 川瀬さんが答えた。


 公開日は、そのあとに決めるらしい。


 まだ、人に見てもらえるところまでは行っていなかった。


 それでも、自分の出る場面を最後まで撮れた。


 俺は、かなり満足していた。


     *


 エプロンと名札を返し、着替えを鞄へ入れた。


 撮影に使った緑の布を畳むと、胸から宮下の名前がなくなる。


 普通の服へ戻った俺を見て、田辺さんが言った。


「歌ってるところも見たいな。映像では見たんだけど」


 俺は、鞄の持ち手を握り直した。


「……日曜日、舞台があります」


「今度の?」


「はい。二時と、五時です」


 自分から続けて言えた。


 田辺さんはスマホを出し、予定を見た。


「五時なら行けそう。ページ、送ってもらっていい?」


「はい」


 鞄を閉じるのをやめ、先に公式の案内を開いた。


 宮下を見てもらえた。


 次は、レンも見てほしかった。


 ページを送ると、田辺さんがありがとうと言った。


 俺も短く返し、スマホをしまう。


 口元を隠す必要はないのに、少し下を向いた。


 (よし。歌も聞いてもらえる)


 日曜日まで三日ある。


 帰ったら、日曜に歌う四曲を、一度ずつ歌っておきたかった。


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