第110話 三十秒の続きも、欲しい
月曜日の午後二時、石倉さんの制作室でヘッドホンをつけた。
机の上には、手仕事の催しの案内がある。
木の器、布の鞄、陶器のカップ。
それぞれを作っている人の手が映る三十秒の動画へ、歌を入れる仕事だった。
曲名は、『手のひらのつづき』。
見本は前に受け取っていて、何度も聞いていた。
「映画のほう、今週でしたよね」
石倉さんに聞かれ、うなずいた。
「水曜と木曜です」
「歌わない役だっけ」
「はい」
「今日は思い切りどうぞ、と言いたいけど。これ、そんなに張る曲じゃないんだよね」
石倉さんが笑った。
俺も、小さくうなずく。
(せっかく歌えるのに)
でも、こういう声を出すのも好きだった。
*
映像を一度、最初から見せてもらった。
木を削る。
布を折る。
焼き上がった器の底を、指で確かめる。
最後は、出来上がったものを誰かの手へ渡して終わる。
途中で作業の音を聞かせるため、伴奏が少し薄くなるところがあった。
その上を、俺の声が通る。
「ここで急に、歌手が前へ出てきた感じにはしたくなくて」
「はい」
「でも、声は聞かせたい。小さくするというより、近くで歌ってる感じかな」
マイクの前へ戻る。
大きく響かせなくても、言葉の最後まで音を残せる。息だけにならないところも、歌唱の八なら選べた。
口とマイクの距離を保ち、伴奏を待った。
*
最初の一音を出す。
高いところへ上がる前に、必要な分だけ息を吸う。
木を削る音が聞こえている間は、語尾を少し軽くした。音程を曖昧にせず、次の言葉へつなぐ。
最後の一行で、声を少し明るくする。
器が手渡されるところで、歌も終わった。
余った息を、マイクに向けないように吐く。
「はい、ありがとう。一回聞きましょう」
石倉さんが再生した。
自分の声を聞く。
見本と同じ高さで歌っているのに、今のほうが気持ちよく聞こえた。
音の終わりを慌てて切らずに済んでいる。
俺は、最後まで画面を見た。
もっと続けて歌いたかった。
三十秒は、短かった。
「久瀬さん、この一回目、かなり使えそうです」
「……はい」
「最後だけ別の感じももらえます? 今のは、渡したあとに少し笑ってる。もう一つ、相手の顔を見る前くらいで」
俺は、最後の言葉を小さく試した。
口元を緩め切らず、相手の反応を待つ。
先週、田辺さんへ電話を渡したときの待ち方が、少し浮かんだ。
映画の台詞とは違う。
ただ、嬉しくても全部を声に出し切らない感じは、使えそうだった。
「できます」
短く答え、マイクの前へ戻った。
*
二つの終わり方を、映像に合わせて比べた。
使うのは、最初に録ったほうになった。
受け取る人の手が、映像の最後で少し動いている。その動きを見たあとなら、俺の声が明るくなっても早すぎなかった。
「せっかく別のも録ったけど、こっちで」
「はい。俺も、こっちが好きです」
思っていたことを言うと、石倉さんがうなずいた。
細かな確認を済ませ、予定していた三時半までに録音は終わった。
来週月曜日から、催しの公式ページと会場の案内画面で使われる。
三万四千円も、その日に振り込まれる予定だった。
俺は、予定表へ書き足した。
今日はまだ、受け取る日ではない。
*
ヘッドホンを戻すとき、石倉さんへ聞いた。
「この曲、長いのもありますか」
「長いの?」
「三十秒より、先です」
石倉さんは机の画面を見てから、少し笑った。
「今あるのは、そこまで。もう少し歌いたかった?」
「……はい」
自分から聞いておいて、返事をするときには少し恥ずかしくなった。
石倉さんは、曲名の書かれたメモへ何か足した。
「それは嬉しいな。続きができたら、聞いてもらおうかな」
「お願いします」
今度はすぐに言えた。
仕事が増えたわけでも、長い曲ができると決まったわけでもない。
でも、歌いたかったことは伝えられた。
それで、今日は満足した。
*
制作室を出て、店へ向かった。
六時の勤務まで、まだ余裕がある。
電車を待つ間、頭の中でさっきの曲を流した。
好きだった最後のところまで来ると、終わる。
もう一度、最初から流す。
二回聞いても、一分だった。
(燃費がいいな、この曲)
何度でも戻れるのは、嫌ではなかった。
電車に乗るとき、映画の台本を出した。
水曜日は、こっちをやる。
店番をして、姉に困って、友人へ電話する。
ページをめくりかけて、また歌の最初が頭に流れた。
俺は口を閉じたまま、そこだけ最後まで聞いてから台本へ戻った。




