第109話 電話、代わってもらっていいですか
金曜日の午前十一時、選考のときと同じスタジオに入った。
机には台本と、黒い細長いケースが置いてある。
その横に、風呂敷で包んだ弁当箱があった。
「おはようございます。中身、まだ入ってませんよ」
田辺さんが言った。
俺は、弁当箱から顔を上げた。
「……はい」
「ちょうどお腹すく時間だよね」
違うと言いかけ、やめた。
そういう時間だった。
(見るのが早すぎた)
今日は食べ物を選ぶ場面ではなかった。
*
川瀬さんも来て、後半の読み合わせを始めた。
由衣は布の袋から、ケースを取り出す。
宮下は最初、それが何なのかわからない。
「あいつの包丁」
由衣が言う。
「向こうで使うって、自分で研いでたのに」
田辺さんは、ケースの端を指で押さえた。
怒った声だった。
ただ、持って帰ろうとはしていない。
続けて弁当を出し、机の上で少しだけ場所を変える。ケースにぶつからないようにしてから、俺を見た。
「これも。母さんが持たせろって」
俺は、並んだ荷物を見た。
この人を帰したら、友人は仕事に使うものと夕飯を受け取れない。
包丁を見たあとで、適当なことを言い続けるのは難しかった。
宮下として、言葉を探す。
「連れ戻すんじゃ、ないんですか」
「仕事を始める前から、道具忘れてどうするんだって言いたいだけ」
田辺さんが、俺を見る。
「それも、本人に言いたいんだけど」
早く呼んで、と急かすような目だった。
俺は一度うなずき、ポケットからスマホを出した。
*
宮下は、片山が駅の反対側で時間をつぶしていることを知っている。
でも、そこを由衣へ教える前に電話をかける。
片山は、最初は出ない。
二度目でつながった。
「今、姉ちゃんが」
そこまで言うと、片山の台詞を読んでいた川瀬さんが、すぐに返した。
「言わないでって、頼んだだろ」
思ったより早かった。
俺は、次の台詞を急いで重ねず、一度口を閉じた。
電話の向こうの友人は、もう怒っている。
宮下も、少し面倒になってきた。
「まだ言ってない。包丁、忘れてるって」
間を置く。
川瀬さんが、短く「あ」と言った。
俺は、ケースを見る。
「あと、弁当」
隣から、田辺さんのため息が聞こえた。
まだ電話の向こうへ話している途中なのに、由衣も聞いていることを思い出す。
片山が、姉に代わってほしいと言う。
俺はスマホを耳から離した。
台本の次の台詞は、『今、代わります』だった。
田辺さんは、もうこちらを見ていた。
「……はい」
それだけ言って、スマホを差し出した。
田辺さんはすぐには受け取らず、俺の手元を見た。
それから持ち替え、耳へ当てる。
「あんた、まず電話に出なさいよ」
その声を聞き、宮下の肩を少し落とした。
電話を返してもらうまでは、まだ店を閉められなかった。
*
読み終えたあと、俺から川瀬さんへ聞いた。
「最後、渡すところ。台詞、短くしてもいいですか」
「さっきの感じ?」
「はい。もう、見てたので」
うまく説明できているか気になった。
田辺さんが、スマホを机へ戻した。
「私は今のほうが取りやすかったです。すぐ取るか、ちょっと迷うか、自分でやれるから」
川瀬さんは台本を見て、うなずいた。
「じゃあ、そこは短くしましょう。受け取る田辺さんも撮りたいので、渡し切る前に一度、相手を見て」
「はい」
紙へ書き込む。
自分から聞いたことが、一つ採用された。
俺は下を向いたまま、余計なところまで線を引かないようにペンを止めた。
(よし。ここ、ちゃんと撮ってもらおう)
*
休憩のとき、田辺さんが風呂敷を結び直していた。
「この姉、最初から優しく渡せばいいのにって思わない?」
「……思いました」
「だよね。でも、電話も無視されて、弟はお腹すかせてるかもしれないし。荷物重いし」
結び目を持って、少し持ち上げる。
「たぶん、売店に着いた頃には腹立ってる」
俺はうなずいた。
渡したいものを持って待っているのに、相手が見つからない。
そのうえ、知らない男が感じよく道を塞いでくる。
(俺、かなり邪魔だな)
宮下が電話をかけたあと、田辺さんの声が変わった理由もわかった。
ようやく本人に文句を言える。
その返事を、撮影でも聞きたかった。
*
一時に読み合わせが終わり、外へ出た。
店へ行くまでには、まだ時間がある。
昼をどこで食べるか考えていたら、少し先に弁当屋が見えた。
田辺さんが同じ看板を見て、こちらを向いた。
「さっきから、食べたいと思ってた」
「……俺もです」
今度は、すぐ答えられた。
二人で店の前まで歩く。
ガラス越しに、ちゃんと中身のある弁当が並んでいた。




