第106話 お客様、そっちへ行かないで
月曜日の午後一時四十分、貸しスタジオの廊下で、壁際の椅子に座った。
鞄の中には、台本と飲み物がある。
台詞は覚えていた。今さら紙を開かなくても、順番に出てくる。
それでも、手を空けて待つのは落ち着かなかった。
台本を出して、膝へ置いた。
(持ってると、何かしてる感じは出るな)
さっきから読んでいるのは、同じ二行だった。
「久瀬さん、お入りください」
呼ばれて立つ。
鞄の持ち手へ台本の角を引っかけないように、先に紙をしまった。
*
部屋の奥にカメラがあり、その横に二人座っていた。
手前には長机。上に紙袋と、お茶のペットボトルが並んでいる。
「監督の川瀬です。今日はお願いします」
「久瀬です。よろしくお願いします」
「由衣をやります、田辺です。相手、務めさせてもらいますね」
椅子から立った田辺さんは、布の手提げを持っていた。
弟へ届ける荷物の代わりらしい。俺の紙コップより、ずいぶん本格的だった。
自己紹介を済ませると、川瀬さんが長机を示した。
「これを売店のカウンターにします。端がお客さんの入ってくる方向。カメラは気にしすぎず、田辺さんと話してください」
「はい」
「最初に、お茶を買った人を送り出すところから」
机の奥へ回り、ボトルを紙袋へ入れた。
思っていたより袋が細い。
一度引っかかったので、口を広げてから入れ直す。
(袋にも選考されてるのか、俺は)
準備ができたことを伝えると、川瀬さんがカメラの横へ戻った。
録画が始まる。
俺は、店に立っている宮下の顔にした。
*
「お待たせしました。ありがとうございます」
客が持ちやすい向きへ、紙袋を差し出す。
受け取って出ていったつもりで、その背中を見る。
田辺さんが一歩近づいた。
「すみません」
「はい」
顔を上げる。
田辺さんは机の上より先に、俺の後ろを見た。
「亮、いますか」
持っていた空の袋を、畳みかけて止める。
すぐに続きを畳んだ。
「片山ですか。今日は、戻りません」
「お休みですか?」
「あ、俺、代わりで。今日だけなんです」
笑って、少し肩を下げる。
詳しいことまでは知らない人に見せたい。ただ、それを言いすぎると、聞かれてもいないことを並べる人になってしまう。
田辺さんが、俺を見る。
「知ってるんですね」
質問なのか、もう確かめ終わったのか。
はっきりしない声だった。
家ではここで、次の台詞へ進んでいた。今は田辺さんの目が、こちらの返事を待っている。
愛想を少し残したまま、俺も相手を見る。
「何を、ですか」
「どこにいるか」
田辺さんは、布の袋を机へ置いた。
軽い音がした。
宮下は、この袋の中をまだ知らない。
俺も机へ置かれる動きを見てから、田辺さんの顔に視線を戻した。
「本人には、連絡しました?」
「出ないから、ここへ来ました」
田辺さんが、机の端へ動く。
奥をのぞこうとしている。
俺は自然に、同じ方向へ半歩寄った。
「裏も、いないんで」
声は、できるだけ感じよくした。
台本には、奥を見ようとする姉を止める、とある。
田辺さんは大きく動かなかった。それでも、そのまま通したら奥へ行かれそうで、足を出したくなった。
「……そうですか」
田辺さんが止まる。
俺も、道を塞ぎすぎないところで止まった。
机の端を挟んで、二人で立っていた。
*
「はい。ありがとうございます」
川瀬さんの声で、田辺さんが袋を持ち上げた。
「ごめんね。ちょっと近かった?」
「いえ。大丈夫です」
いつもの声で答えた。
まだ胸のあたりが落ち着かない。
田辺さんは俺を見て、小さく笑った。
「ちゃんと入れない位置に来るね。押されてないのに、止まっちゃった」
「……入れたくなかったので」
「うん。伝わった」
答えてから、言い方が少し強かったかと思った。
役の話だとは、伝わっているらしい。
(田辺さん本人を追い返したいわけじゃないです)
付け足すほどのことでもなさそうなので、飲み込んだ。
川瀬さんは、手元の画面を見ていた。
俺は机の上の紙袋を、最初の位置へ戻す。
うまくできた気はした。
だから余計に、感想が気になった。
今の足の動きはどうだったのか。声は聞こえていたか。明るくしすぎなかったか。
聞きたいことだけなら、たくさんあった。
「久瀬さん」
「はい」
「この宮下、もう少し調子のいい人にできますか」
川瀬さんが顔を上げた。
「今のだと、店番を頼まれたら、きちんと引き受けそうに見える。もう少し、安請け合いした人にしてみたいです」
俺は、机の上のボトルを見た。
友人から、一日だけ頼むと言われる。
接客くらいできると引き受けて、その姉の相手までついてきた。
それなら、もう少し軽く返せそうだった。
「……やってみます」
言ってから、紙袋を開いた。
次は、もっと気楽に引き受けてしまった宮下にしてみる。
袋の幅だけは、さっきのうちに覚えていた。




