第101話 椅子を、ふたつ
拍手が落ち着くまで、少し待った。
小野さんが、短い音を弾く。
舞台がもう一度明るくなった。
俺は、椅子を一つ出していた。
次に、もう一つ。
距離を少し確かめ、机の横へ置く。
客席の前のほうで、小さく笑う人がいた。
本編では人が片付けているところへ来たレンが、今度は先に準備している。
何も言わなくても、それが見えたらしい。
俺は、少しだけ得意そうな顔で、もう一度椅子の向きを直した。
(ちゃんと、やってますよ)
普段の片付けでも、このくらい静かに褒めてもらえたら嬉しいかもしれなかった。
*
ソウが来た。
紙を机へ置き、いつもの顔で言う。
「次は、お前が先に椅子を出せ」
俺は、二つの椅子へ目を向けた。
「もう、出してある」
森野さんの顔が、少し止まった。
客席が笑う。
「……じゃあ、座る」
ソウが座ったところで、俺は少し笑った。
小野さんの音が入る。
息を吸った。
*
『椅子をふたつ』。
明るい曲だった。
最初から大きく歌うのではなく、少し機嫌がよくなった声で始めた。
相手が来た。
用意した椅子にも気づいてくれた。
それが嬉しいのに、レンは、別に待っていたわけではないという顔をしている。
声のほうへだけ、少し楽しさを出した。
短く話すところで、ソウを見る。
森野さんが、こちらを見上げる。
俺は一言だけ置き、そのまま旋律へ戻った。
客席から、小さく笑う声が聞こえた。
そのあとには、また静かになった。
*
最後の部分で、同じ旋律が広がる。
俺は、長い音を出した。
本編の最後ほど、大きな約束をする声ではなかった。
また来た日曜日が、思っていたより楽しい。
そのくらいの明るさを保ったまま、最後まで歌った。
小野さんの音が消える。
ソウは、少し呆れた顔で、隣の椅子を示した。
レンが座る。
二人が並んだところで、明かりが落ちた。
拍手が聞こえた。
俺は椅子に座ったまま、一度だけ手を握った。
(聞いてもらえた)
自分で選んだ曲を、最後まで歌えた。
*
昼の回を終え、控室で買ってきたおにぎりを出した。
森野さんも、パンの袋を開ける。
「最後、よかったですね」
「はい」
「椅子を二つ出したところで、もう笑ってました」
俺は、少し笑った。
歌う前から、見てもらえていた。
小野さんが水を飲み、譜面を閉じる。
「夕方も、あの速さで大丈夫そうですか」
「大丈夫です」
声は、まだ使えた。
ただ、今は食べたかった。
おにぎりを一口食べると、思っていたよりお腹が空いていたのがわかった。
(買ってきた俺、えらい)
昨日の自分の判断を、今日は素直に褒めておいた。
*
夕方五時から、もう一度舞台へ出た。
客席には、昼とは違う人がいた。
後ろのほうに、藤崎さんと相原さんも見える。
俺は、最初の台詞を言った。
昼に上手くいったからといって、全部同じ速さで進めることはしなかった。
相手の声を聞く。
客席が笑ったら、少し待つ。
歌うところでは、小野さんの音へ息を合わせる。
その一つずつを続けた。
最後の追加曲まで来ても、声は疲れて細くならなかった。
長い音を出す余裕があるので、表情も、相手も見ていられる。
俺は、椅子に座ったソウへ歌った。
さっきより少しだけ楽しそうな顔をすると、森野さんも、口元を少し緩めた。
*
二度目の拍手を聞いた。
三人で並び、頭を下げる。
顔を上げると、藤崎さんが、両手を高めにして拍手していた。
相原さんも、隣でうなずいている。
俺は少し笑った。
今日は、隠しきらなくてもよかった。
舞台を下りると、安西さんが待っていた。
「二公演、お疲れさまでした。新しい曲、入れてよかったですね」
「はい」
今度は、続きもすぐに出た。
「歌えて、嬉しかったです」
そう言うと、安西さんが笑ってうなずいた。
俺は、台本を受け取った。
次の回でも、この曲を歌えることが、もう決まっていた。




