第100話 同じところで、また笑った
日曜日の午後、舞台の袖で鍵を持っていた。
右手の鍵と、左手の紙。
すっかり覚えた組み合わせだった。
それでも、客席の話し声が聞こえると、少し胸が落ち着かない。
今日も、知らない人がいる。
前の公演を見た人も、来るらしい。
同じところをもう一度見て、面白いと思ってもらえるだろうか。
考えたところで、森野さんが隣へ来た。
「僕、最初の部屋のところ、何回見ても好きなんですよね」
「……俺もです」
答えてから、少し肩の力を抜いた。
自分は、何度も見て笑った。
それを、今日もやればよかった。
小野さんの音が聞こえる。
俺は鍵を握り直さず、そのまま待った。
*
最初のやり取りで、客席が笑った。
曲はできた。
そっちが先かよ。
聞き慣れた二人の返事だった。
俺は、笑いを聞いて少し嬉しくなり、そのままレンの顔を保った。
歌い始める。
近くへ置いた声を、少しずつ広げた。
客席に、前にも見た顔があった。
あの映像を見て来たと話してくれた女性かもしれない。
確かめるように見つめるのはやめ、ソウへ目を戻した。
今は、こちらの歌を聞いている人を演じてくれている。
後半の高い音を、柔らかく出した。
最後まで歌うと、前のほうで拍手が始まりかけた。
俺は、頭を下げなかった。
まだ、ソウの返事がある。
「……で、部屋は」
客席が、笑いに変わった。
俺も、返す。
「今、そこ?」
「そこだよ」
拍手しかけた人も、笑っていた。
(お礼は、あとで)
心の中でだけそう思い、次へ進んだ。
*
部屋を探す場面では、森野さんの返事を、いつもより少し待った。
客席が反応する場所が、前の二回とも少しずつ違う。
徒歩三十五分のところだけでなく、一番安い飲み物を選ぶところでも、小さく笑う声があった。
俺はメニューから目を上げ、何も悪いことはしていない顔で、コップへ手を伸ばした。
レンは本当に、その金額で済ませたい。
わざと客席へ、笑ってくださいと顔を向ける必要はなかった。
小野さんの音が、軽く入る。
俺は、欲しい部屋の条件を歌った。
声の高さも、拍も、もう迷わなかった。
余裕があるぶん、森野さんが一覧を少し遠ざける手まで見られる。
その紙を、声を出したまま目で追った。
客席で、また笑う人がいた。
*
ソウが帰ったあと、一人で舞台へ残った。
さっきまで笑っていた客席が、静かになる。
俺は紙を見る。
電話をかけ、部屋を借りる。
言うことが決まっていても、レンには少し緊張がある。
その顔を作るために、昔の自分を長く思い出す必要はなかった。
相手が返事をしてくれるまで、スマホを耳へ当てて待つ。
声を聞いたつもりで、短く答える。
「六時から、お願いします」
言い終えたところで、客席の誰かが少し息を吐いた。
俺は紙の時間へ目を落とした。
大きく喜ぶ前に、まず、ちゃんと取れたことを確かめる。
そこから、最後の場所へ動いた。
*
『六時の約束』を歌った。
途中で声を止め、ソウの返事を待つ。
森野さんは、こちらを見た。
「次の日曜、六時なら」
俺はうなずき、息を吸った。
後半が始まる。
前より弱く入っても、そのあと広げる声は保てた。
小野さんも音を薄くして、こちらの声が上がるところで、一緒に広げてくれた。
客席を、声が通った。
最後の言葉まで、急がず歌う。
二人で短く返事を交わし、明かりが落ちた。
拍手が聞こえる。
俺は、暗い中で椅子へ手を伸ばした。
今日は、ここからもう一曲あった。
自分で選んだ曲だった。




