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故郷と呼べる場所   作者: 那珂湊
第一章 「あの日」のままで
7/12

番外編 ホームラン王の孤独~怒りの行方~

 あけぼのの薄明かりに照らされるホームには、前に進み行く列車とは対照的に、その場で立ちすくむ人間たちの気まずい空気だけが残された。

 始発列車が水本駅を離れていったあとも、名越の足元だけは昨日のままだった。

 会社は、一つ前へ進んだ。

 だが、昨日ゴミ箱が描いた低いアーチの放物線が、まだ誰の目にも焼き付いて消えていなかった。



 小早川は運転再開の一番列車を見送った後、足早に本社へ向かっていた。

 道中、これからの仕事のことなど色々と考えが浮かんでは消えてゆくが、先程タバサと交わした会話が脳裏から離れなかった。

 会社を代表して謝罪はしたつもりだ。

 ただし、名越個人としての分は残っている。

(だが本人達の問題だ。当事者ではない俺が軽々に踏み込んで良い部分じゃない)

 そう思いつつも『昨日の一件』が会社にもたらした波紋を思うと、立場的にも、個人的にも、歯噛みする思いであった。


 小早川が取引先から帰ってくると社内が妙なざわつき方をしていた。

 何事かあったのか手近にいた部下に問うと、

「なんか、総務部長が突然ブチギレたらしいですよ。例の外国人の女の人に。この忙しい時に痴話喧嘩なんてよっぽど暇なんですかね」

 その話を聞いて血相を変えて三階大部屋へ急行したが、そこで見た光景に内心頭を抱えた。

(なにやってるんだよ……)

 そうこうしているうちに詳細な情報が出回ると共に、

「総務部長、痴話喧嘩の末にモニターを殴って破壊、ゴミ箱をロングシュートする」

 などと、噂は猛スピードで尾ひれを付けて拡散していた。

 しまいには、

「名越選手、今季第一号のホームランは弾丸ライナーでキャビネットを破壊。ホームラン王争いに名乗りを上げる」

「プロ野球・ベルスターズの名越選手、開幕戦に向けて順調な仕上がり具合を社内にアピール」

 などは軽い方だった。

 要するに完全にネタにされていた。


 災害発生以来、社員の誰しもが抱えていた疲労や恐怖といったものが、名越の失策をきっかけとして、名越の入社経緯に対するくすぶる感情も相まって名越への強烈な逆風となってしまったのだ。

 散々な言われようだが、擁護もできない。

 長屋に頼まれたのは、面倒を見てやってくれ、という程度の話だったはずだ。

 それなのに、いつからか小早川の中で、その言葉は妙に重くなっていた。

(オヤジとの約束、守れてないな……)

 朝日が照らす小早川から伸びる影は濃かった。



 運転再開を見届けて本社に戻ってきた名越の机は、昨日のことなど嘘のように元通りになっていた。痕跡と言えば、パソコンのモニターが新しくなっていることくらいで、昨日蹴飛ばしたゴミ箱に至っては何もなかったかのように机の横に鎮座していた。

 だが名越を中心に三階大部屋だけが、昨日に取り残されているようだった。

 表向きは、いつも通りを取り繕っている。今朝も部下には挨拶された。

 だが元々遠かった心の距離が、いっそう遠くなっていると感じた。

 そういう時の人間は何気ない動作の違いに敏感になる。まさに名越がそうだった。

 書類を置く位置が少し遠いくらいは序の口だった。

 声を掛ける前に「今日の部長はどうだろうか」と探るような目線があり、声を掛けられて名越が顔を上げると目を逸らされる。明らかに腫れ物扱いされていると感じた。

 だが何も言えない。

 全ては身から出た錆。

 爆発するまで耐えていた。そして爆発した自分が悪い。

 そのことが分かっているからこそ、避けられた事態を回避できなかったことが憂鬱な気分にさせていた。


 その後、名越は必要に迫られて、ある決断を下した。

 独断だ。

 どうなるかは分からない。

 ただ一人で抱え込むのは止めた。

 自分の器量ではそんなこと最初からできなかったのだ。

 分かっていたはずなのに、気づけばまた、同じ形で机の前に座っている。

(同じことをまた繰り返しているな……)

 名越の心は揺れていた。

 そう思いながら、前に進むと決めた名越の視界の端に、春霞が立つ青空が見えた。

 つい先日は、青空の色が少しくすんで見えた。

 あれから何度目の青空なのだろうか。


 そんなことを考えていると、

 どこかに連絡を取っていた星野が、いつの間にか目の前に立っていた。

「部長。昨日の件は、もう部長だけの問題ではありません」

 自分が何かを決断したように、目の前の彼女も決断したのだろう。

「……分かっています」

「見ていなかった人も、聞いています。事実も、事実でないことも」

「そうでしょうね」

「今日は、余計なことを言わないでください。たぶん、それが一番です」

 表情が引きつっていたのは、恐らく自分に対する恐怖心を抱いているからなのかもしれない。

 この諫言は星野なりの優しさなのだろう。

 もしかしたら先日まで若手研修の一環で長屋と共に行動していたから、比べたのかもしれない。

(だとしたら、格落ちもいいところだな……)

 名越にとってその優しさは甘くはなかった。


 そういえば、と名越は時計を見た。

 先程小早川が名越の元に来て話したとき、駅近くの喫茶店「さくら」で昼食を、と誘われていたのを思い出す。

「ちょっと出かけます」

 と急ぎ足で名越は大部屋から出て行った。

 名越が不在になり、残された大部屋は空気が緩んでいた。



「や、どうも。遅かったですな」

 先に席に着いていた小早川が、いつもの軽い調子を崩さず手を上げた。

「すいません。色々考えていたもので」

「さっきの俺の話ですか?」

「……まぁ、それも含めて色々と」

 少し気まずい空気が流れかけるが、小早川は気にせず続けた。

「しかし名越さん。昨日はゴミ箱、今日は列車と、急に活気に満ちあふれてますな」

「勘弁してください……」

「勘弁するかは、ゴミ箱に聞きましょう」

 だが、そんな冗談も長くは続かなかった。

「冗談はこの辺にして。名越さん、さっきも言ったので分かっているでしょうが、あれは駄目ですよ」

「……ええ」

「さしずめ、長屋さんの不在を発端に色々溜め込んだ結果でしょう。例えば決裁の集中とか、目に見えて疲弊してゆく社員達とか。それに焦りもあったんでしょう。あとはタバサさんへの苛立ち、ですかね」

 色々考えられる理由を挙げてゆく、どれも名越にとっては心当たりのあることだった。

「理由は分かります。ですが、理由は免罪符ではありません」

 小早川は切々と説いてゆく。

「社員が見たのは、理由ではないです。感情むき出しにして怒鳴った責任者と、飛んだゴミ箱です」

 名越が食べているカツサンドは味がしなかった。

 しばらく二人は黙々と昼食を取っていた。

「タバサさんには、ベイローレルの人間として謝りました」

 小早川がおもむろに、そんなことを口に出した。

「……すみません」

 今の名越には謝るしかなかった。情けないとかの感情はもはや湧いてこなかった。

「俺に謝る話ではありません」

「分かってはいるんですが……」

 やれやれ、といったようすの小早川は、

「なら、名越さん本人が通すべき筋は、きっちり通してください」

 事ここに至って、名越は何も言えなかった。

 個人的な感情の後始末までさせてしまっては、なにを言うべきかも分からなかった。

 だが気になったことはあった。

「小早川さん、一ついいですか」

 小早川は、目で話を促す。

「小早川さんは、どうしてそこまで私に構うんですか」

「最初は、長屋さんに頼まれたから、ですよ」

「最初は?」

「……さて。どこからが約束で、どこからが俺の意地なのか。よくわからないんですよ」

 男達の昼時は、忙しなく過ぎていった。



 結局、壊れた空気は昨日の今日ではどうにもならなかった。

 ただ壊したモノの処理は何かしらの形で自分でやらなくてはならなかった。

 取り急ぎ始末書から始めなければ。

 だが自分の始末書は誰が処理するのだろう。自分なのか、それとも。

 そんな事を考えながら始末書を書いていた。


「こちら、昨日の備品の破損に関する処理です」

 夕方、星野が持ってきたのは、備品破損報告書だった。

「……仕事が早いですね」

「壊れたものは、記録、報告しないと直せませんので」

 その言葉が指しているのは、壊したモニターだけなのだろうか。

 報告書を見ながら考える。

 部下との距離。

 タバサとの関係。

 責任者としての立場。

 名越自身の限界。

 壊れたものを挙げるとキリが無かった。

 次はキレるだけでは済まないかもしれない。

 そうさせないし、それはできない。

 だから名越は、昼前に入れた連絡のことを思い出した。

 名前も、用件も、まだ星野には言えない。

 ただ、自分一人ではもう持たないという事実だけは、彼女にも見えているはずだった。

 だから、

「星野さん。私は、もう一人では持たないのかもしれません」

 名越が改めて認めた。

「はい」

「否定しないんですね」

「昨日の部長を見ましたので」

 これも星野なりの優しさなのだろうか。

 会社は、運転再開で一つ前へ進んだ。

 だが名越の足元には、まだ昨日の破片が残っていた。

 拾い集めるには、まず自分が壊したものを、ひとつずつ確認していくしかなかった。


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