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故郷と呼べる場所   作者: 那珂湊
第一章 「あの日」のままで
6/12

第四話 何度目の青空か

 現業事務所に戻った立花は、災害復旧対策本部に詰めていた現場長や助役を集めて、

「今週中の運転再開」との決定を伝えた。

 しかし、予想していた反発とは少し違った。

 立花を迎えたのは、予想していた種類の怒気ではなかった。

「どうせそんなことだろうと思っていた」と言わんばかりの表情と視線だった。

 驚きもない。食ってかかってもこない。ただ、淡々と現場が引き受ける消耗を考えている顔だった。

 返ってきたのも、諦めに近い声での、ひどく実務的な問いだった。

「既に残業時間が内規上の産業医面談ラインを超えた社員が半分以上です。その面談日程と代替要員の確保はどうしますか」

 復旧作業や点検の段取りや臨時の行路表の作成など、運転再開に向けた必要作業はもはや皆分かり切っている。

 もうそこを訊く段階ではなかった。

 誰をどこへ回し、何を後ろへずらし、どの無理を誰に飲ませるのか。その話にしかならない。

 つい先日まで現場はもっと殺気立っていた。だが今は、その殺気が妙に薄れていた。

 気勢が削がれた、というのとも少し違った。

 怒るだけ無駄だと、誰もがもう知っているような静けさだった。


 輸送指令、運転、保線、土木、建築、信号通信、電力そして駅、どこに連絡しても返ってきた反応は似たり寄ったりだった。怒鳴りもしない。噛みつきもしない。ただ、必要なことだけを聞いてくる。その淡々とした調子が、立花にはかえって堪えた。

 何か言ってくれ、と思った。無茶だと。ふざけるなと。

 こっちだって分かってる、と返せるくらいには荒れてくれた方がまだ楽だった。

 だが誰もそうしない。もうその段階は過ぎたのだと、先に現場の方が覚えてしまっている。

 やるのか、やらないのか。やるなら、誰が消耗するのか。それだけだった。


 その空気を息苦しく感じて外に出た。出たところで何か変わるわけでもないのに。

 目の前の線路群には、ある日突然仕事を失い眠りに就いている電車、気動車、機関車、客貨車。

 その姿は何も物言わぬ社員達に重なった。嫌な連想だと思ったが、振り払えなかった。

 こいつらを縦横に動かすのが俺の本来の仕事なんだがな……

 ふと、そんなことを思った。

 だがすぐに、いや違うな、と思い直した。

 今は、動かせばそれで済む話じゃない。誰かを消耗させてでも動かす。それが誰かを選ぶ。

 そしてその決定を飲ませるところまでがまとめて自分の仕事になっている。

 そのことで、ひどく居心地の悪さを感じた。

 今日は晴れて過ごしやすい日和だ、立花はそう感じた。思わず眩しさに目を細めた。晴れていて良い気持ちなはずなのに、少しも良い気持ちはしなかった。

 そうして立花は、しばらく車両達を眺めていた。戻ればまた、誰が消耗するのかという話になる。それが分かっていたからこそ、すぐには足が向かなかった。



 空は春先にふさわしい、陽光あふれる青空だった。

 何かがようやく前へ進み出す。そんなふうに思わせる日差しだった。

 前日の時点で鉄道の一部運転再開が「今週中を予定」とのプレスリリースがあったのも、日常への記念すべき第一歩を踏み出した気分にさせるのだろう。

 だが名越にはその青空の色が少しくすんで見えた。

「駅に告知を貼り出したところ、やはり反響は大きいようです」と先程、星野が今朝見た駅の様子を教えてくれた。

 早速小早川の元にも問い合わせの連絡がひっきりなしに来ているようで、姿が見えなかった。

 他の社員も出払っているためか、久方ぶりに名越の席がある三階大部屋のフロアは閑散としていた。今大部屋に居るのは総務部メンバーが星野を含め数人だけだった。もっとも、その数人も電話対応に追われている。

 タバサの『拠点』も大部屋にあるが、本人は取材に出かけていた。

 その中で、名越は一人決裁書類や資料と格闘していて、運転再開へ向けて周りが動き出しているのに、ぽつんと取り残されているような気がした。

 孤軍奮闘。

 そんな言葉が一瞬頭をよぎった。

 そこまで大げさなものでもないのかもしれない。

 ただここ何日かで、いよいよスタミナ切れか、と薄々感じていた。

 そして、何で自分はこんなところに取り残されて書類や資料で溺れかけてしんどい思いをしているのか、そんな風に考えつつ、名越は手元の書類に視線を落とした。


「総務部長。やはり『今週中』では躱せません。内も外も、その『今週中』は具体的にはいつ頃だと聞いてきます。延期前提でも構わないです。一旦決め打ちで日付を出しましょう」

 声に顔を上げると、小早川がいつの間にか机のそばまで来ていた。

 そしてその言葉は必死のものだった。責めているものではなかった。

 ただ、もう曖昧な言葉では躱せない、という切迫感がそのまま出ていた。

「しかし……」

 名越は返答に窮した。

 小早川自身も色よい返事が返ってくるとは考えていなかった。

 小早川の言っていることは、その実、小早川を代弁者として膨らんだ外の期待が社内に雪崩れ込んで発した言葉であった。

 それでも、どこか期待していた部分もあり、

「……小早川さん。解釈にもよりますが今週中は少なくとも土曜か日曜までは今週中です。言葉遊びに聞こえるかもしれませんが、私は少なくとも平日とは考えていません」

 その名越の言葉に、

(そうか、そうだよな)

 小早川はそう自身を納得させつつも、失望とはまた違う、行くアテの無い割り切れない感情がまた一つ積み重なった。

「では、どう説明しましょう。『今週中』で納得できないから問い合わせが来ているんです。曖昧にして好きなように解釈して貰うと?」

「今まで通りです。あくまで『今週中』です。憶測が憶測を呼ぶかもしれませんが、それ以上の情報を出すと逆に内も外も混乱します」と名越は言い切った。

 名越ができるのは、申し訳ないと頭を下げるだけだった。

 もう小早川が言える言葉は無かった。

「申し訳ない」がむなしく響いた。

「日付は曖昧でも、その『今週中』に経理は拘束されるんです。曖昧なまま数字を青天井で積み上げるつもりですか。その『今週中』の責任は誰が引き受けるんですか?総務部長ですか?それとも別の誰かですか?それだけは先に決めてください」

 肩を落とした小早川の横から、今度は高藤が畳みかけた。

 小早川とのやりとりを聞いていたのか、やや興奮気味にまくし立てる。

「……小口現金等の取扱や処理といった通常業務に関しては高藤さんです。復旧に関する費用の仮払いも業者への支払いも請求書の発行も高藤さんです。経理部長として負う責任と行使できる権限に変わりはありません」

 ただ、と一言おいて、

「曖昧も含めて、出入りを管理する最終的な責任は、私にあります」

 高藤は「答えになっていない」と納得いかない表情だったが、

 これ以上言ってものれんに腕押しと思ったのか、

「私は、帳簿の上で言葉遊びをする気はありません。ただ『今週中』の上に積み上がった数字は、運転再開次第、確実に、明確に、行き先を決めて下さい」

 それだけ言うと、高藤と小早川はそれぞれの持ち場に戻って行った。

「……分かりました」

 名越はもう一度、申し訳ないと頭を下げた。



 立花もこんなことはしたくなかった。

 だが、名越の無難に終始する態度に我慢の限界だった。

「結局、現場には何と言えばいいんですか」

 名越の机を、バンッ、と両手で叩き、地を這うようなドスの利いた声が三階大部屋に広がる。

 誰かに声を荒げるのはいつ以来だろうか、自分でも分からなかった。

 もうそんなことを気にしている余裕はなかった。

 だが、名越は険しい表情のまま、

「……立花さん、落ち着いてください」

 と一言だけ。それだけだった。

 その顔からは、何を感じているのか、それとも何かを耐えているのかは窺い知れなかった。

 ただその態度は、現場への無理強いをどう考えているのか、その覚悟があるのか、なにも伝わって来なかった。

 立花は我慢の限界だった。伝わらないならこの若造に何度でも言ってやる。

「落ち着いていられるか。お前は現場の人間を殺す気か。口を開けば、今週中、今週中って言うけどな、ならその責任は誰がどう取るんだ」

 名越は、立花の眼光鋭い、射殺すような視線を直視せず、やや下をむいたまま、宙のどこでもない一点を凝視していた。その表情は先程よりますます険しくなったが、未だ一言も発しない。受け止めようとしているのか、受けた上で考えているのか、それすらも立花には分からなかった。

 やがて名越は、一言だけ発した。

「……分かっています」

 そして名越は、申し訳ないと頭を下げた。

 なにを分かっているんだ。

 そう怒鳴り返しかけて、立花はグッと言葉を飲み込んだ。

 既に取り返しはつかないと思っている。だがこれ以上言えば、本当に越えてはいけない一線を越える気がしたからだった。

 立花はやり場の無い怒りを抱えたまま、現場事務所に戻っていった。

 だが立花が離れていったあともしばらく、机を叩いた音だけが名越の耳の奥に残っていた。

 名越は書類へ視線を戻したが、さっきまでどこを読んでいたのか分からなくなった。

 指先にうまく力が入らない。喉が妙に渇いていた。

 それでも、手を止めるわけにはいかなかった。


 三階大部屋は静まり返っていた。

 しかし、時間と業務は息を潜めながらも進んでいた。


「総務部長、こちらをお願いします」

 星野があえて空気は気にしていない素振りで、新しい書類を差し出してきた。

 名越は、はい、と一言だけ返事をして書類を受け取り、目を通した。

 だが内容が頭に入って来ない。何度読み返しても、文字が紙の上で滑っていた。

 それでも、いつも通りの顔で押印した。

 星野もそれ以上は何も言わなかった。言えなかったのかもしれないし、ただ忙しかっただけかもしれなかった。

 その日の終わりまで、名越は一度も席を外さなかった。

 問い合わせは減らず、確認事項は増え続けた。小早川は外との言葉のやりとりに追われ、高藤は数字の行き先を探し、立花は現場へ戻った。

 そのたびに何かが名越の机へ戻ってきたが、名越はそのどれにも何も言わなかった。

 ただ、返事が少しずつ短くなった。

「分かりました」

「そのままで」

「今週中で」

 同じ言葉だけが壊れた機械のように何度も口をついて出た。


 翌日になっても名越は変わらなかった。

 少なくとも周りにはそう見えた。

 決裁もしている。指示も出している。感情を出さない。むしろ誰も名越の元に来ない分、前日より静かなくらいだった。

 だが静かなのは、落ち着いたからではなかった。

 何かを一つずつ考えているのではなく、考えなくて済む形にしか返せなくなっているだけだった。

「今週中」

「予定」

「確認中」

 そうした曖昧な言葉ばかりが、机の上にも、名越の中にも、積み上がっていった。



 運転再開前日になっても、その調子は変わらなかった。

 最終案内、現場への連絡、関係先への返答、細かな確認。

 目の前の仕事は途切れず続いた。

 名越は一つずつ処理していった。処理している、ように見えた。

 だが同じ書類を二度三度読み返すことが増えた。

 押印の前に不自然に一拍置く癖がついた。

 一度聞いた確認を、もう一度星野に聞き返すこともあった。

 自分でも気づかないほどの小さな鈍りだった。

 それを指摘する者はいなかった。指摘するほどのことではないと思われていたのだろう。

 実際、その程度のことだった。

 まだ誰も、名越が壊れかけているとは思っていなかった。

 名越自身も、そうは思っていなかった。

 ただ、立花の「現場の人間を殺す気か」という声だけは、まだ耳に残っていた。

 それを打ち消すように、名越は机の上の紙へ目を落とし続けた。

 目を落としている限り、まだ考えなくて済む気がした。


「名越さん」

 タバサの顔を見た瞬間だけ、名越の肩から力が少し抜けた。

「運転再開の一番列車の取材の件だけど」

 それを聞いて、ああ、と何かを思い出したかのように呟くと、

「拠点を貸してるよしみだ、一番列車の先頭に場所を用意してるぞ。助士席側の確認要員の後ろだが、まぁ勘弁してくれ」

 事もなげに名越は言った。名越としては友人に何かできないかというよかれと思ってのことだった。

 それと同じくらい、自分が気を回したことくらいは、無駄になってほしくなかった。

 しかしタバサには余計なお世話だった。自分の取材は自分でやり方も場所も決める。それが彼女のやり方だった。

「気持ちはありがたいけど、明日は駅で見るつもりだから」

 いつものことだった。

 いつものことだったが、この時に限ってはただのすれ違いでは済まなかった。

「……何だと。いや、そういう話じゃなくてだね……」

 名越は、必死に感情を抑えてコントロールしようとした。

「列車での取材だと全体を見るには良いけど、今回は点で見てみようと思う」

 タバサにとっては、いつも通りのやりとり。

 少しだけ自分のやり方に口出しされて苛立った。

 でも、それも大したことではなかった。

「おい、どれだけ苦労したと思ってる」

 本人としては極力落ち着いて言ったつもりだったが、それとは裏腹に出てきた言葉は感情しか乗っていなかった。

 だがその言葉がタバサには押しつけがましく感じた。

「気持ちはありがたいけど、頼んでも無いのに余計なことされても、困る」


 その言葉を聞いた瞬間、名越は体が熱くなり、頭が白く塗りつぶされる感覚に支配された。


 確かにタバサの物言いも雑だった。

 だが相手を侮るわけではなし。

 タバサの名越に対するいつも通りの物言いでしかなかった。

 だがこの時の名越にとって最後の一押しは、いつも通りのタバサだった。

 そして不幸なことに名越にとっては、タバサは相対的に怒りの沸点が低くなる相手だった。

 総てが最悪のタイミングだった。


「……てめぇ、いい加減にしろ!」

 名越がキレた。


 タバサには、

「名越が唐突に爆発した」

 それ以外何が起きたのか、何が気に食わなかったのか理解が追いつかなかった。


「いつも、いつも、いつも、人のこと振り回しやがって、チクショウ!」

 名越が机を、バンッ、と両手で叩いて、

「人がどれだけ苦労してると思っていやがる!」と吼える。


 全てが突然で、一瞬の出来事だった。

 机の上を横薙ぎ一閃すると、書類が宙に舞い、物が落ちてけたたましい音を上げる。


「どいつもこいつも、どれだけやっても、まだ足りねぇみたいに好き勝手言いやがって!」

 すっく、と立ち上がると、その勢いで座っていた椅子が後ろに吹っ飛ぶ。


「クソがぁぁぁ!」と叫ぶと、手近なゴミ箱を全力で蹴っ飛ばす。

 ゴミ箱が、三階大部屋に低いアーチを描き、キャビネットに直撃した。


 その場の時間が止まった。

 人の動きも全て止まった。


「誰が決めて、誰が頭下げて、誰が責任取ると思ってやがる!」

 その場に居る誰に向かってでもなく、怒鳴り散らす。


「人を殺す気かって?こっちだってずっと……!」

 その表情は、目を血走らせ、怒りで顔を真っ赤にし、呼吸も荒かった。


 その姿は、責任者の姿からはかけ離れていた。

 貧すれば鈍する。

 それは、心に余裕がなくなった人間の行き着いた先の姿だった。


 その場に居た者は、ただただ呆然とその姿を見つめるだけだった。

 騒ぎを聞きつけた社員が、何事かと三階大部屋へ続々と集まってきた。

 立花が、高藤が、小早川が、そして本社にいる社員が。

 だが、誰もすぐには声を掛けられなかった。

 散らばった書類。落下して画面が割れたモニター。後ろへ倒れた椅子。その中心に名越が立っている。

 息は荒く、肩は上下し、目だけがまだ怒りの熱を引きずっていた。

 最初に動いたのが誰だったのか、後から思い返しても曖昧だった。

 星野が一歩出たようにも見えたし、小早川が名越ではなく先にタバサの方を見たようにも見えた。

 ただ、その場にいた全員が同じことだけは理解していた。

 見てはいけないものを見た、ということだった。




 災害発生から十日余り。

 水本駅から伸びゆく各線は運転見合わせが続いていた。

 だが続く余震、被害規模に対する人材、資材の不足など数々のハードルをなんとか乗り越えて、前夜の最終検査をクリアし、始発の約三十分前には試運転列車による確認も無事完了。

 この日、減速運転など制約付きだが、一部区間の運転再開を迎えた。

 十日余りの運休期間のはずだが、通常運転だった頃が随分と遠くに感じた。

 特段セレモニーなどは無い。

 しかし関係者が水本駅一番線に一堂に会し、一番列車の出発を待っていた。

 季節は春とは言え、早朝四時半過ぎは寒さが厳しい。

 客足もまばらで、既に停車中の電車内にも数人の旅客のみだった。

 名越は、手足の先の冷たさを気温以上に肌寒く感じていた。

 緊張からか、それとも別の何かからか、自分でもよく分からなかった。


 午前四時四十六分。

 始発の下り普通列車の発車時刻。

 遠方の下り本線出発信号機の現示が青になる。

 連動してホーム上の出発反応標識(レピーター)が点灯する。

 立ち番の輸送主任が時計を確認し、おもむろに発車ベルスイッチの「入」ボタンに手を伸ばす。

 発車メロディが鳴り響いても、ホーム上の空気は乱れること無く粛々と時間が流れる。

 ぴったり一コーラス分発車メロディを鳴らすと、発車ベルスイッチの切ボタンを押す。

 自動放送の案内が流れ終わると、時刻、信号現示、旅客の乗降を全て確認し、今度は出発指示合図機のボタンを押す。

 長音一声、ブザーが鳴ると同時に、緑色の光を灯した合図灯(カンテラ)を頭上高く掲げ、車掌に出発指示合図を送る。

 それを確認した車掌は、進行方向前方の出発反応標識(レピーター)、出発指示合図そして旅客の動向を確認し、ドアスイッチを閉扉操作する。

 列車側灯の減灯を確認し、今度はブザー合図のボタンを長めに押す。

 運転士が運転台の運転士知らせ灯(パイロットランプ)の点灯とブザー音での閉扉合図を確認し、全ての準備が整うと、前方を指差喚呼する。

「出発、進行」

 ゆっくりと列車は動き出す。

 立ち番の輸送主任は列車の進行方向を見つめる。

 そして、列車の最後部に差し掛かると、顔を列車の方向に向けて、しかし目は進行方向を見つめたまま車掌に向かって「お疲れさんです」そんな意味を込めて右手を横に軽く掲げる。

 そして、列車が自分の横を通り過ぎると、

「後部、よし」

 と列車の後部確認をする。

 遠くに去りゆく列車がホームを抜け切ると、今度は線路をなぞるように反対方向に向けて指差喚呼する。

「進路、よし」

 一度は途切れた、長年染みついた阿吽の呼吸の一連の動作にブランクは無く、流れるようだった。

 名越はそんな一連の流れの中で、去りゆく列車の車掌の入江と目が合う。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 一瞬の、目線だけとはいえ、そんな思いが籠もっていた。

 列車が去ったホームは再び静寂に包まれた。




 だが、その静けさも長くは続かなかった。

 それぞれが持ち場へ戻ろうと動き出す中で、小早川だけはその場を動かなかった。

 名越を一瞥し、次にタバサを見ると、少しだけ迷ってから声を掛けた。

「タバサさん、少しだけいい?」

 タバサは怪訝そうな顔をしたが、何も言わず小早川の方へ歩いた。

 ホームの端、他の者に聞かれにくい位置まで来たところで、小早川は小さく息を吐いた。

「ベイローレルの人間として、これだけは言わせてほしい。昨日は申し訳なかった」と小早川が頭を下げる。

 タバサは黙っていた。

「ああいう行動はダメだ。責任ある立場の人間として、そこは謝る」

 そこで一度言葉を切ってから、小早川は続けた。

「ただ……名越さんを丸ごと切って捨てるのも、俺には少し違うと思ってる。もちろん、それとこれとは別だけどね」

 タバサは視線を外したまま、短く息を吐いた。

「謝られたからって、すぐにどうこうはならないです」

「だろうね」

「正直、まだ整理がついてないんです。心配してたことが現実になったってこともあるんですけど、巻き添え食らって罵倒されるとか、意味分かんないし」

 小早川は、そうだね、とだけ返した。

「でも今日は仕事で来てますから、取材はします」

「取材を続けるかどうかは、君が決めることだからね。こっちから何か言う気はないよ」

「続けます。今は、その方が楽だし、そもそもそのためにこの街に来たので」

 そこでようやくタバサは小早川を見た。

「……でも、今は名越さんとは話したくないです」

 小早川は少しだけ苦い顔をして頷いた。

「分かった。それで十分ですよ」

「……失礼します」

 それだけ言うとタバサは取材へ向かった。

 名越の傍を通ったが、お互い視線すら合わせず、一定以上の距離があった。

 結局、名越のそばに立つ者はいても、誰も不用意に話しかけようとはしなかった。

 前日の記憶が、まだ全員の足元に色濃く張りついたままだった。

 あけぼのの薄明かりに照らされるホームには、前に進み行く列車とは対照的に、その場で立ちすくむ人間たちの気まずい空気だけが残された。



 運転再開という直近の目標を達成し、全体として見れば状況は少しずつ持ち直し始めていた。

 だが、その流れに追いつけていない場所があった。

 三階大部屋。

 運転再開したとはいえ、復旧作業という大きな流れの中では、何かが劇的に変わったわけではない。出入りする人の数も、業務量も、大きくは変わっていなかった。

 名越の元に来る決裁や責任も必要な報告も、相変わらず変わりはなかった。

 立花は現場と復旧の進捗を。

 高藤は通常業務と復旧費用の動きを。

 小早川は各事業の営業面と、日常へ戻していくための外との動きを。

 それぞれ必要なことだけを報告して、去っていく。


 だが、誰も何かを問わなくなっていた。

 本来なら問うべきことはいくらでもあるはずなのに、報告だけをして引き揚げていくのだ。

 しかも誰も、前日にあったことを口にしない。

 他の社員も同じだった。何事もなかったかのように、粛々と業務を進めている。

 みな仕事はしている。列車も動いた。

 だが、昨日までのようには、もう誰も自分に寄りかかってこない。

 それは信頼が戻ったからではなく、寄りかかればまた何かが折れると知ってしまったからだ。

 このままでいいはずがない。

 誰もが口には出さないが、同じところで立ち尽くしていた。



 皆同じように報告だけして去る。そのことにいち早く気づいたのは、直属の部下である星野だった。

 だが、気づいたからといって星野に何か言えることがあるわけではなかった。

 自分が口を挟む話ではない、と半ば言い聞かせるようにして、目の前の業務へ意識を戻す。

 それでも、三階大部屋の空気がどこか壊れたままなのは、嫌でも分かった。

 意外にも、最初にその流れを止めたのは立花だった。

 現場の進捗と復旧作業の報告を終え、「以上です」と短く言って踵を返しかける。

 名越も、お疲れ様です、と視線を書類に落としかける。

 だが、二歩目が出なかった。

 立花は一度だけ目を伏せ、それから名越の机の前へ向き直った。

「……一つだけ、先に言っておきます」

 名越は顔を上げたが、何も言わなかった。

「現場はまだなんとか回せます。回せますが、このままだと「やれ」で押し通すしかなくなります。私も人や工程は動かせます。でも、どこで止めるか、どこまで飲ませるか、その一線は引けません。それが無いまま次へ行くと、今度は本当に持ちません」

 名越は少し間を置いて、

「……分かりました」とだけ返した。

 立花が去ったあとも、しばらく三階大部屋には紙をめくる音と、短い受け答えだけが残った。


 次に名越の机へ来たのは高藤だった。

 帳票と仮払申請の控えを脇に抱えたまま、立った姿勢で口を開く。

「立花さんの話とは別に、こちらも一つだけ置いておきます」

 名越は手元の決裁書類から顔を上げた。

「数字は処理できます。通常業務も、復旧費用も、必要なものは必要なものとしてこちらで回します。ですが、曖昧な言葉のままだと、後で誰にどう説明するかが残ります」

 高藤は淡々としていた。淡々としているからこそ逃げ場がなかった。

「私は、帳簿は守れます。数字の行き先も整理できます。けれど、曖昧な決定を「そういうものです」と正当化することはできません。それは経理の役目ではありません」

 そこまで言って、高藤は一度言葉を切った。

「今のままでもなんとかできます。しばらくなら」

「ですが、今の状態を回すことと、それを維持することは別物です」

 名越はしばらく黙っていたが、やがて低く、

「……分かりました」とだけ返した。

 高藤もそれ以上は求めなかった。

 軽く会釈だけを残して、自分の席へ戻っていった。


 その背を目で追う間もなく、今度は小早川が机の前へ来た。

 いつものような柔らかい顔ではなかった。どこか疲れたような、それでいて腹だけは括った顔だった。

「俺からも、ついでに一つだけ」

 軽く聞こえる言い方だったが、話は少しも軽くはなかった。

「外は、こっちが考えていることよりも遥かに先のことを期待します。そこをいなすこと自体はできます。実際、今までもそうしてきました」

「でも、何をどこまで言っていいか、その交換条件が文書になっていないと、うまくやるほど危うくなるんです」

 小早川はそこで、ほんのわずかに視線を逸らした。

 ついさっき、自分がどこで何をしてきたかを思い出したように。

「……さっきも、後始末をしてきたばかりです。頭を下げること自体はできます。場を収めることも、相手の顔を立てることも、今さら慣れっこです」

 少し、呆れという感情もあったのかもしれない。

「でもね、それで済ませていいことと、そうじゃないことがある」

 名越は何も言わなかった。

 小早川はその沈黙を責めるでもなく、静かに続けた。

「俺は、根回しはできます。火消しもできます。けど「ここから先は約束ではない」「ここまでは会社が受ける」って一線までは引けないんです。その線引きがないまま外へ出ると、結局その場しのぎでの対応にしかならない。今日はたまたま俺が頭を下げて済んだとしても、次も同じとは限らない」

 そこで小早川は、少しだけ苦い顔をした。

「……それと、誤解のないように言っておきますけど、俺は名越部長を丸ごと悪いとは思ってません。思ってませんが、あれはさすがにまずいです」

 名越にとって、心当たりがあって、そしてどこまでも耳の痛い話だった。

「まずいまま、誰も何も言わずに進めるのは、もっとまずい」

 三階大部屋の空気が、ほんの少しだけ張り詰めたものになった気がした。

 小早川は最後に、「そんなところです」とだけ言ってその場を立ち去ろうとした。

 その背に向かって、名越が声をかけた。

「……小早川さん」

 小早川は振り返らないまま足を止めた。

「迷惑かけて、申し訳ないです」

 その一言は、謝罪というより、ようやくそこへ名前をつけたような響きだった。

 小早川は小さくため息をついて、

「それは俺じゃなくて、ちゃんと本人に言ってください」とだけ返した。

 だが、その声にも責める色は薄かった。

 責めたいのではない。責めるだけで済む話ではないと分かっている声だった。


 小早川が去ったあと、名越はしばらく机の上の書類を見ていた。

 見ていただけで、書類の内容は全く入ってこなかった。

 立花は現場の話をした。

 高藤は数字の話をした。

 小早川は外の話をした。

 だが言っていることは、どれもほとんど同じだった。

 何が言いたかったのか?

 誰かが線引きしなければならない。

 誰かが、その線引きに理由と説明を与えなければならない。

 誰かが、その線引きを武器として、内にも外にも立たなければならない。

 つまりそれは、今の自分一人のやり方では埋めきれない空席だった。

 何でもできる強い人が一人いれば済む話ではなかった。

 今必要なのは、人を黙らせる重さではなく、曖昧なものに線引きができ、その線引きに理由を与え、そして線引きを内にも外にも立てる手だった。



 どの位の時間そうしていただろうか。名越はようやく書類から顔を上げた。

「……星野さん」

 呼ばれた星野が顔を上げる。

「はい」

 だが名越は逡巡する素振りを見せて、再び思考の沼に陥りかけた。

 上手くいくのか、できるのか、不安が頭をもたげる。

 だが迷っている時間は、もう残っていなかった。

「あの……」と星野の戸惑ったような言葉にふと我に返り、そして慎重に、慎重に、言葉を選ぶように、言葉を紡ぐ。

「……アポイントを取りたい人がいるんだ。今すぐにとは言わないが、できるだけ早く」

 星野は一瞬だけ不思議そうな表情をしたが、すぐに表情を戻した。

「……承知しました。どなたでしょう」

 名前を聞いて内心意外には思ったが、驚きはしなかった。

 そして、何かが前へ進み始めたのだと分かった。

 三階大部屋は相変わらず慌ただしかった。

 だがその一言で、名越一人で抱え込むだけの時間は終わった。

 失われたモノが多いほど、皮肉にも出会いは輝く。人と人も。人と会社も。

 前に進むと決めた名越の視界の端に、春霞が立つ青空が見えた。

 つい先日は、青空の色が少しくすんで見えた。

 あれから何度目の青空なのだろうか。


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