番外編 つばさ~向かい風~ 前編
その日は台風が迫り、非常に雨風共に強い日だった。
パンツスーツにレインコートを着て向かい風の中をかき分けて進む彼女のその姿は、まるで大空へ向かって飛び立とうと必死にもがいているようにも見えた。
高く、遠くへ飛び立つには向かい風が条件としては良い。
だが、如何せんその向かい風は彼女には強すぎた。
飛び立つどころか飛ばされないようにするだけで精一杯。
だが彼女は怯まず、臆さず、やがて来るであろうその一瞬に向けて一歩、また一歩と着実に歩みを進めていた。
やがて一瞬の晴れ、そして一瞬の凪。
台風の目に入ったのだろう。
そして彼女は不意にやって来た、高く、遠くへ飛び立つその一瞬のチャンスを逃さなかった。
名越が仕組んだことの顛末を聞き及んだ総務部三課長は、沈痛な面持ちで鏡花の目の前に座っていた。
第一ほしふりビル四階、名越がタバサの拠点として仕立てた部屋は今、総務部長の鏡花と総務部三課長にとってまるで法廷のような場所だった。
唯一の救いは、鏡花が三課長を断罪する場ではなく、三課長が鏡花を糾弾する場でもないこと。
ただそれだけだった。
結果として残ったのは、確かに書庫としてはいささか手厚く配された什器や備品の数々。
そしてなにより、最初から『拠点』として使うことを前提に、名越が手ずから図面を引いた配線やレイアウト図を元に作られた部屋そのもの。
「そりゃ、社長は満足だろうよ」
サラリーマンである総務部三課長のそんな恨み言が聞こえてきそうだった。
「単刀直入に申し上げますわ。……このまま名越さんにやられたままでは、なりませんわ」
そんな鏡花の決意もどこか虚しく響いていたが、四人はここからどう挽回するかを考えるためにあえてこの部屋に集まったのだ。
下を向くことはいつでもできる。
「ありがたいお言葉」は十倍でも、二十倍にでもして叩きつけられる。
そのためには、これからなにをするのか明確にしなければならない。
そうやって無理矢理にでも切り替えないと、やっていられない。
鏡花と総務部三課長の思いは一致していた。
「今回の件は全てわたくしの力不足です。あなた方には不要な仕事と心労を掛けてしまい申し訳ありません」
そうして頭を下げる鏡花の姿は悲痛なものではあったが、弱気であるようには見えなかった。
「部長、頭を上げて下さい。水本部長より付き合いは長いのに、社長の言うことを鵜呑みにしてしまった私達にも責任はあるんです」
「総務課長の言うとおりです。謝らせなければならないのは名越さんですよ」
「あのアホが狡っい手ぇ使いよるのは予想できたのに、止められへんかった。そして部長に警告すらできへんかった。それは私らの責任でもあるんです」
「……この部屋が拠点になるのか、書庫になるのか、それとも全く別の部屋になるのかはまだ分かりません。けれど責任は取らせます。ですから私に力を貸して下さい」
そう言って鏡花が再び頭を下げると、すでに答えは決まったようなものだった。
名越が既成事実化して勝手に完成させたつもりになっているあらゆるものを、一つ一つあるべき状態に戻して行く。
丁寧かつ迅速に。
人も、物も。
所詮は他人の尻ぬぐいでしかない。
全てを無かったことにはできない。
できることは、
「名越さんがわたくし達を謀ってまで決められたことは、残念ながら間違っていますわ。ですからその間違いを正す。あの方を社長として担いでしまった以上、それがわたくし達の仕事ですわ」
三課長の目を見ながら鏡花は決意を新たにした。
「本人は、神輿は軽くてなんとやら、とでも思っているのでしょうが、とんでもない重量物ですね」
総務課長がそう付け加えると、鏡花も苦笑するしかなかった。
姫大将と三家老。
世直しならぬ、間違い直しの小さな大冒険。
しかしそれこそが今、一番優先すべき大事な仕事だった。
「いやぁ、視線が痛いですね」
鏡花と総務部三課長を社長室に迎え入れた名越は、事もなげにそんなことを言うと、どうぞ、と四人を応接セットのソファに掛けるよう勧め、自分はスツールに掛けると余裕を感じさせる態度で、
「ご用件は――聞くまでもないですね。例のビルに拵えた、あの部屋の件ですか」
そう切り出した。
「話が早くて助かりますわ。いつもこうならわたくしも苦労しないのですが」
「いきなりご挨拶ですねぇ。そうカリカリしていると幸せが逃げて行きますよ」
「余計なお世話ですわ。……その様子なら、わたくし達の申し上げたいこともご存じですわね」
なおも名越は余裕を崩すことなく、
「間違いを犯した事は認めます。ではその間違いとは何なのでしょう?会社に損失を与えたわけでは無いですから、一般的な背任行為と言うにはいささか無理があるでしょう」
口では責任を認めたが、やはりどこ吹く風という態だった。
「社長には、認められた決裁権の範囲内で、やってはいけないことをしたと言う自覚はおありで?」
「道義的責任ですか。では誰に、何を、どうすれば良いのですか?」
(本当にこの人は……)
なぜこういう場面では弁が立つのか。
鏡花が名越に辟易としている間に、総務課長が問いかけた。
「なぜ私達にわざわざ細切れの情報を与えるようなことをされたのですか」
そう問いかけられた名越は少しだけ表情を引き締めて、
「誤解しないで頂きたいのは、決してあなた方を嵌めようとしたわけではありません。あなた方の判断は間違っていませんし、私が情報を細切れにしたのは、あくまで総務課長、人事課長、管理課長の職掌の違いに合わせただけのことです。物を買いたいのに、人事課長の所にお願いはしない。ただそれだけです」
掴んでも、掴んでも、掴みきれない。
水か、霞か。
「確かに、総務部を統括する立場の水本部長へ先に話を通すべきだったでしょう」
名越は畳みかける。
「では、極論ですが鉛筆一本買うのも総務部長にお伺いを立てるのか?それは違いますね。制度上の話で言えば、ベイローレルの規定では『契約が必要な場合を除く、十万円以下の物品購入は各部門所属長ないしは管理職以上の決裁があれば稟議を経ずに支弁可能』とあります。私もその規定に従った。件数は多いでしょうが、全てルールの中です」
「ええ、社長のおっしゃるとおりですわね」
鏡花が反論することはなく、名越が更に続ける。
「全てを総務部長が把握するのなら、各所属長に認められている権限を全て回収して、水本部長か私がやるのか。それではただの独裁、ないしは寡頭制ですね。……課長達を否定して、水本部長はまた倒れてしまう」
鏡花は相変わらず、そのとおりですわね、とばかりに頷いていた。
だが三課長の追及の手が緩むことはなかった。
「タバサさんのことはどう説明するのですか。社内の問題ならまだしも、タバサさんは馴染んでいるとはいえ外部の方です。それは問題にはならないと?」
人事課長はタバサが絡んでいると指摘すると、名越は、
「タバサですか……」
と考える素振りを見せるが、
「前提条件として、経緯はどうあれ本社の移転が始まった以上、本社にいる全ての人間の分の居場所は確保しなければなりません。それに内部、外部の例外はありません。そもそも外部の人間が管理部門に居座っていた先日までが私の判断による特例措置でした。機を見てそれは正すのが経営者の役割、そして判断した人間の責任です」
立て板に水。
「確かに本人の意向を先に聞くべきだったかもしれません。ですが初動が遅れると当たり前ですがウチの社員が優先となります。そして総務部長が自社のために動くならば、誰かが外部の人間のために動かなければならない。それが私だった。ただそれだけです」
指摘には必ず答えを提示している姿は、自分は間違っていないと確信しているようだった。
「本当にそれが社長である必要はあったんですか?ただ仕事に私情を持ち込んだことへの詭弁じゃあないんですか」
管理課長がなおも追撃の一言を放つが、
「私情かどうかはともかく、私がやる必要があったのかと思うのは当然です。……ですから基本的には総務課長、人事課長、管理課長の三人にお願いしました。説明不足ではありましたが」
そこで一息入れるために名越はティーセットに手を伸ばして紅茶を口にしつつ、更に続ける。
「意向の確認と言うならば、順番が逆になったのが私の明確な失策です。だが幸いにもあの部屋はどうとでもなる。今はこの本社にある長屋さんの資料も、いつかは第一ほしふりビルに動かさなければならない。そのための場所を用意しておくのは、何ら不都合はありません」
その腹の内は分からないが、鏡花は三課長の追及に乗ること無く静かに名越の話を聞いていた。
「まぁ、あとはタバサをこのままにするのかと言われれば、個人の事情であれば余計なお世話、外部との関係であれば適切に動く。それ以上でもそれ以下でもありません。……あなた方に心配されるようなことはないんです」
名越のふるう長広舌が途切れると、途端に室内は沈黙が支配した。
「分かりました。確かに社長のおっしゃるとおりですわ」
その沈黙を破ったのは鏡花の意外な言葉だった。
名越もその反応は意外だったのか少し身構える。
「なるほど。第一ほしふりビルのあのお部屋は本社移転に伴って色々と整理するために必要になった汎用スペースなのですね」
「そうですね」
「将来的には長屋社長から引き継いだ資料を置くこともできる」
「当然、できますね」
「タバサさんが使わなくても、取り立てて会社に損失となることはない」
「……ええ、まぁ」
ここまでの鏡花の態度を見ても何か不満があるようには見えなかった。
だが、当たり前のことを並べ立てる鏡花は、名越には不気味だった。
少しの間を置いて、
「では、あのお部屋はタバサさんの拠点として決定した訳ではありませんのね」
ただ一言だけだった。
そして、
「でしたらわたくしは、社長のおっしゃる理屈にあわせて事を処理するだけですわ」
「いや、しかし――」
「何か問題でも?」
それ以上名越の口から言葉が発せられることはなかった。
発することができなかった。
「今回の件は大変参考になりましたわ。社長、ありがとうございます」
そう言って鏡花が恭しく名越に向けて頭を下げると、名越はいよいよ自身が見誤っていたことを思い知らされた。
(肉を切らせて骨を断つ……)
「お礼に一つ。……釣り野伏は単独では上手く行きませんわ。練度、士気、信頼、全てが揃ってこそ、ですわ」
悪戯っぽい笑みを浮かべる鏡花に、
(やられた……)
名越は心中に動揺を押し込めながら顔には笑みを貼り付けて、手にしていたティーカップを静かにソーサーへ戻すのがやっとだった。
社長室を辞去した四人に達成感はなかった。
「……あれだけ長々と話していたのに、社長から一言も謝罪の言葉が出ませんでしたね」
人事課長が疲労の色を隠せない様子でそうこぼす。
「ええ、そうですわね……。ですが目的は間違いを正すことであって、謝らせることではありませんわ。それに、手負いの猪の追い込み過ぎは厳禁ですわ」
鏡花の言葉に、そんなものかと思いつつも、総務部三課長はどこか釈然としないといった表情だった。
「あの部屋はどうしますか?社長の言うとおり、どうとでもなりはしますが」
管理課長としては名越の事もさることながら、宙に浮いた存在の処遇も気がかりだった。
「……まだ決めませんわ。と言うより決められませんわ」
鏡花は少し考えてから続けた。
「ですが、社長の指示で決めたものに関しては一旦白紙に戻して、わたくし達の職分でもう一度扱いを考える。その言質は取れましたわ」
社長室から退出間際、鏡花は、
「社長は、『道義的責任はどうすれば』とおっしゃっておりましたわね。でしたら名越社長が決めたことは白紙に戻して、改めてわたくし達の判断で決めさせてくださいな」
そう言って名越から了承を得ていた。
「ですから皆さんには全てを知った今の状態で、社長から返していただいたものについて、皆さんの職分で改めて判断していただきたいですわ」
「随分と大盤振る舞いですね」
そんなことを言いつつも、鏡花の言葉を聞いた総務課長は心なしか安心したようだった。
「ただ、部屋そのものの行方を決めるのは、案外わたくし達では無いのかもしれませんわね」
そう言った鏡花の横顔は、まだ何かを見落としていないだろうか、と探るような表情だった。
「単刀直入に申し上げます」
その言葉の端には、少しだけ緊張があった。
「タバサさん。名越さんが、いえ、ベイローレルで用意した第一ほしふりビルの『部屋』の件、白紙に戻させていただきますわ」
伝えたところでどうなるかは分からない。
タバサはその言葉通り出て行くかも知れない。
だがそうなる前に、はっきりさせなければならない。
間違いは正す。
鏡花の意地とも言えた。
「……そう」
一言つぶやくと、タバサの視線は言葉を探すように宙をさまよい、やがて少し寂しそうな表情で、
「ごめん、でももう関係ないかな。ここから出て行くのは決めたことだから。……鏡花の気持ちだけ受け取っておく。お世話になりました」
タバサの反応は鏡花の想像の範疇だった。
「……ええ、こちらこそ」
鏡花とタバサの短いやりとり。
だが僅かな会話を通して、鏡花の胸中で何かが燻り始めた。
そして、その燻りは一昼夜を経て小さな炎になりつつあった。
先日、遥か南の海上で発生した台風は、いつの間にかこの街に接近していて、昨夕から天気は下り坂だった。
明日には台風が最接近ないしは水本市付近を直撃するとのことだったが、鏡花の心の内に灯った小さな炎を消し去るには全くの力不足だった。
なぜだか分からない。
だが合理性などはこの際どうでも良かった。
言葉にしてみると、『なんか、このまま終わるのはイヤ』。ただそれだけ。
結局のところ、鏡花を今この瞬間突き動かしているのは、そんな子供じみた思いだけだった。
だからなのか。
「先日、社長が作ったこの部屋ですが、使い道は白紙にしましたが色々と後始末をしなければならないのですけれど、他にもやらなければならないことがありますの。それで……」
第一ほしふりビル四階の名越が作った『部屋』に集まった、立花、高藤、小早川の三人を目の前にした鏡花の第一声は、なんとも掴み所の無いものとなってしまった。
とりあえず集めたは良いけれど、どういう後始末なのか、なぜこの面子なのか、大事なことを三人に伝えていなかった。
そもそも悪天候の中、台風対策の陣頭指揮を執る立花まで時間を割いて集まったのは、電話口で鏡花が何やらモゴモゴ言っているものだから、仕方ないと手を差し伸べた、に近い。
「……どうすれば良いのでしょう」
想定外の言葉に三人ともずっこけそうになるが、呼び出した本人が至って真面目なのは、鏡花の表情からも見て取れたので、
「まずは後始末ですよね。社長がこの部屋を作る際に生じた支出、それと南方日報さんとの話、ひとまずはその辺りでしょうか」
高藤が助け船を出す。
「それなら俺は、南方日報さんと話してきますか?」
小早川もそう水を向けると、鏡花は黙って頷いた。
では、と小早川が口を開きかけて、
「……それだけで良いんですか?」
立花がしびれを切らしたように問いかけた。
その言葉に三人の視線が鏡花に集まるが、当の本人はどこか居心地悪そうにしながら逡巡していた。
こんなこと言って良いものか。
だが言わないと多分後悔する。
でも所詮は仕事とは関係ない私情。
(どうすればいいの……)
鏡花は思考の迷路に陥りかけたが、
「やりたいようにやれば良いと思いますよ。……ここにいる三人は、やりたいことを我慢して後悔するより、やりたいことは徹底的にやれ、と言う人間の下でやってきたので、大抵のことなら付き合いますよ」
そんな立花の言葉で引き戻された。
「それは……」
「前社長の長屋さんです。……名越さんはそれ以上ですが」
どこか呆れたような口ぶりは、やりたいことは徹底的にやってきた姿を見てきたからこそ。
鏡花のやりたいことに向けて背中を押すにしては頼もし過ぎるほどの言葉だった。
「……なんだかこのまま終わるのが嫌なのですわ。わたくしも上手く説明できないのですけれど」
意を決して口にしたのは、そんな合理性のカケラもない思い。
「常識的に考えたら名越さんが悪い、それがたとえ直接的な理由ではなくても、タバサさんが出て行くと言うなら止められない。内心、わたくしが代わりに名越さんを張り倒したいですわ。……後始末は確かに必要です。ですがそれは皆さんを呼び出すための理由に結果が付いてくるだけのこと」
少し感情的になっているのだろう。だが止められない。
「ただ何の因果か、わたくしがこの会社に来た時に名越さんとタバサさんの二人に挟まれてしまった。そして否応無しにお二人の姿を見続けてしまった。仲が良いんだか悪いんだか分からないし、しょっちゅうケンカもしている。名越さんはいつも余計なことを言って、適当で、身勝手で、何度言ってもゴミ箱に座るのを止めないですし。タバサさんも、物の言い方を考えずに言わなければ良いことを言ってしまう。わたくしも幾度となく巻き込まれましたわ」
そこまで言うと、思い出したかのように頬に朱を注ぐが、もはやお構いなし。
「でも、どこか不格好で噛み合わないのに、不思議と阿吽の呼吸が成立している。きっとその空気に当てられたのですわね。ですからわたくしは、こんな下らないことのせいで、あの方達がこのまま終わるのが、なんだかイヤなのですわ」
建前もなにもない、心の底からの叫び。
身も蓋もないその言葉は、子供じみていたかもしれないが、正面から受け止めてくれる人がいた。
立花も、高藤も、小早川も、まるで「しょうがないな」とでも言いたげに苦笑していた。
「私は台風対策があるのでこの辺りで失礼します」
そう言うと立花は、鏡花の言葉なんて聞いていないとでもいう風に、さっさと部屋から出て行こうとした。
「……え」
思わず鏡花が手を伸ばそうとするが、
「俺の出番は、お嬢さんの頑張り次第だ。……美味しいところを掻っ攫う準備はさせてもらうよ」
眼力こそいつもの立花ながら、その口元は少しだけ緩んでいた。
そんな思わぬ言葉と表情に高藤と小早川も先程までの苦笑はどこへやら。初めて見る立花の姿に大笑いしていた。
笑いすぎてうっすらと涙を浮かべていた二人が、
「私も美味しいところを持って行くために考えてみます」
「俺もお嬢さんの頑張りに力添えできるよう手を尽くすか」
なんて続いたからには、
「皆さん寄って集って、一体なんなのですの!」
恥ずかしいやらなんやらで、鏡花の顔はこれ以上無いほどに真っ赤に染まっていた。
高藤は自分の席に戻ると、すぐにPCで経理情報や契約情報のデータベースを漁り始めた。
闇雲にではなく、アテがあった。
必要なのは正確な情報と現在の状況把握だけ。
「……昔取った杵柄、か」
そう独りごちると、自嘲気味にフッと鼻で笑った。
既に雨脚が強くなっている。
小早川は鏡花の『ワガママ』を聞いたその足で、ある場所へと向かっていた。
幸いにも相手は付き合いも長いし、何より趣味の仲間でもあった。
多少は無理なお願いも聞いてくれるかもしれないが、
「ずいぶんと高くつくだろうなぁ……」
そう言いつつも、その姿はどこか楽しげに見えた。
これから来る台風に備えるために立花が一時帰宅した際、妻に「何か良いことでもあった?」と聞かれた。
別にそんなことはなく、むしろこれからしばらくは気を張っていないといけない。
嵐が過ぎ去っても、それで終わりではないのだ。
だが心のどこかで、今日の昼間にお嬢さんが切った啖呵(?)を少し懐かしくもまばゆくも感じていた。
「俺も歳だな」
昔の事と重ね合わせるにはまだ早いと思っていたが、そうでもないようだ。
本社四階社長室。
既に外の景色は夕闇に染まり、雨が激しく窓に打ち付けている。
『部屋』の件以来、名越はすぐ下の階にいるはずのタバサとの間に大きな溝が生じていた。
あえて口にはしないが、こうなった理由は分かっていた。
ただ、確かに少しばかり先走ったがいつかは必要になる物を用意しただけで、責められる筋合いはない。
そのことに対して反省すべき点はあれども後悔はなかったし、総てが間違っていたと言われることは心外だった。
やりたいことを徹底的にやる。
ただそれだけ。
「……どうしたもんだかねぇ」
女心はよう分からん。
今日『も』徹夜覚悟だった。
記事も仕上がっていない。
なんなら紙面に載せる写真のピックアップも進んでいない。
いっそ画像データを丸投げしようか。
タバサはこの数日、ほんの少しだけ動きが鈍っているように感じていた。
別に何かあったわけではない。
ただ自分の道を勝手に決められたことに腹が立っただけ。
むしろ余所さまのところで大手を振って仕事をするのは気を遣うから、丁度良かったのかもしれない。
半年あまりで大分物が増えた『拠点』も、撤収に向けて着実に片付けている。
「……居場所か」
なんとなく、この間までの総務部とは思えない喧騒が遥か遠くに感じられた。
嵐が、やってくる。
今の鏡花にとっては、らしくないことをして赤っ恥をかいた記憶でしかない。
だがいつかそれを、高く遠くへ飛ぶ為の助走だったと思えるのだろうか。
「わたくしはただの小娘ではありませんわ。やりたいことをやる、ワガママな小娘ですわ」
鏡花はそう呟きながら、威力を増しつつある風雨に抗って、まるで蹴散らすかのように帰途についていた。




