第四話 なつのおわり
第一ほしふりビルへの総務部の移転により、本社移転は一つの区切りを迎えた。
わけではなかった。
むしろ総務部の移転は、これからの本社移転計画の見通しを分かりにくいものとしていた。
雪崩を打つように進むかと思われた移転は、バスに乗り遅れるなと言わんばかりに他部署も動き出そうとしたところで『待った』がかかったのだ。
止めたのが鏡花だけならば、移転の熱狂を捌ききれるか怪しかったかもしれない。
だが、鏡花のみならず、立花や高藤、小早川といったベイローレル幹部級の顔ぶれが足並みを揃えて全力で止めに入るならば話は別。
できるのは精々、押し留めている各人に噛みつく程度。
しかも噛みつくにもそれ相応の覚悟が必要となれば、そこまでしてでも移転したいほどの荒くれ者はおらず、嵐の前の静けさともいえる秩序が保たれていた。
かくして、次はどこだ?という腹の探り合いと、移転への準備が併走するという奇妙な状況がここ数日は続いていた。
そんなふと生まれたエアポケットのような日々を、ある人物が見逃す訳がなかった。
その始まりは、単なる思い込みだった。
総務部が移転した後の本社三階大部屋の半分は、早速どこかの部署の物置として使い始められていた。
良く言えば、抜け目がない。
悪く言えば、節操がない。
旧総務部の一角に拠点を構えている人物は、そんな状況を傍観していた。
総務部が移転してからここまでの数日、タバサがベイローレルの誰かと会話をする機会はめっきり減っていた。
本社三階大部屋の旧総務部側に顔を出すのは、顔見知りの社員以外には、なにをしに拠点に来ているのか分からない名越、残務処理や日常業務のため本社までやってくる総務部の社員位のもの。
何だかんだで昼食や夕食を共にすることが多かった鏡花や星野に至っては、本社から第一ほしふりビルへの移転の日に駆り出されて以降、顔を合わせることすらなかった。
だがその状況が何かと都合が良かったのもまた事実だった。
表情変化に乏しいとか言われる割に、性格は社交的ではあり人脈も幅広いが、独りでいることが苦では無くむしろ好む傾向があるタバサにとって、今後を考えるにはこの状況はうってつけとも言えた。
(もうそろそろ決めないと……)
そんなことを考えているとは露知らず、あるいは考えていると知っていたのかは分からない。
だが粛々と本社移転が進んでいることは事実だった。
傍観に徹しているタバサの上では、名越が第一ほしふりビルの完成図書の平面図や設備図、そして管理課長が今さっき持参した最新の備品管理表とにらめっこしていた。
「これは……、思ったより足りねぇな」
そんなことを呟きながらひたすら電卓を叩き、メモ用紙に数字を書き込んではCADと悪戦苦闘したり、時折金属定規を見つめながら思案したりする姿は、傍から見ると何をしているのかと問われるのは必至。
だが本人は長くもない事務屋人生の集大成とばかりに必死だった。
ふと、手を止めて考える。
ベイローレルを取り巻く状況は以前より改善している。しかし第一ほしふりビルへの移転の経緯には、喉に刺さった小骨のような、ほんのささやかな違和感があった。
それは、図面と理想が中々合わないのもさることながら、
(美しくない……)
その見方が正しいのかは分からない。
だが名越はそう感じていた。
(まぁ、だからこうしてやらなくても良いことをやっているんだが)
また作業に戻ろうとして、ふと『本当にここまで必要なのか』という思いが脳裏をよぎるが、すぐにそんな疑問は消え去っていった。
株式会社ベイローレルの管理課長ほど損な役回りはない。
給料が悪いわけでもなく、仕事にやりがいがないわけでもない。
仕事量の割に休みは取れているし、そもそも災害発生からの一時期を除き死にそうなほどの仕事量ではない。
同僚や部下の人間関係で悩まされることはあるが、それほど致命的ではない。
だが、ベイローレルの管理課長ほど損な役回りはない。
時折そう感じていた。
(ほんま、本業以外はよう働く兄ちゃんやなぁ)
名越からのお使いを受け取って社長室を出ると、男はその内容に辟易としていた。
大学進学のため故郷を出てから、早二十数年。
ベイローレルでの勤続二十年の表彰も受けた。
だから大抵のことには動じないつもりだったが、社長室に呼び出されて、
「鏡花さんが時間稼ぎをして、総務以外の移転の足が止まっている今のうちに、共用部分の整備を進めたいんです。ですからこのリストにあるものを至急調達してください」
なんて社長直々に言われたならば、サラリーマンとしては『NO』とは言えない。
しかも、
「鏡花さんと経理には私から話しておきますから、なるべく急ぎで」
と来ればいよいよ、
(あの兄ちゃん、一体なに考えよるんや)
嫌な予感はしていた。
だからといって抗えるほど、サラリーマンの身は軽くない。
「本当に、損な役回りだ」
それに、その男は少し優しすぎた。
「総務課長。やっぱりウチにも、資料室の一つや二つくらいあっても良いと思うんですよ」
「はぁ……」
この忙しい時に呼び出されたので来てみたら、唐突にトンチンカンなことを言い出した。
サラリーマン人生も先が見えてきたと思って油断していたのだろう。
昨年、長屋さんがどこぞの馬の骨を私の上司として総務部長に据えたときには眩暈がした。
そして今年の春。
未曾有の大災害の対応に追われる中、目の前にいる馬の骨は更に別の馬の骨を呼び寄せた。
外国人記者を引き込んだと思ったら突然ブチギレて、舌の根も乾かぬうちに今度はお嬢様を総務部長に据えた。
……救いなのはそのお嬢様が良い意味で期待外れだったことだ。
なんだかんだと振り回されているが、上司次第でこうも仕事の質が変わるのか、と感心させられていた。
「で、ですね。例のビルの四階は今のところ大小の会議室がメインだと思うんです。その一つを資料室として利用したいんですよ」
そら、話の雲行きが怪しくなってきたぞ。
目の前の馬の骨、もとい、社長はまた変なことを思い付いたようだ。
「それは結構ですが、水本部長にお話はされたのですか?」
「ええ、まぁ。独り置いて行かれて寂しいから社長室か資料室が欲しいと言ったら、すっげぇ目で言われましたよ。『ご自由になさったら』って」
思わず頭を抱えたくなる。
それ、ダメなヤツじゃん。
今から星野を呼ぼうか?いや流石に上司としての立場がない。
しかも社長室か資料室ってなんだよ。結局どっちなんだよ。
「あの社長――」
「なので、社長室じゃなくて資料室にしました」
「ちょっと何言ってるかよく分からないです」
「資料室です」
これ以上ここにいたら、胃に穴が空く。
「……分かりました、資料室ですね。準備します」
「南側の日当たりの良い部屋で。あ、風呂トイレ別がいいです」
「善処します」
あぁ、サラリーマン人生はなんて残酷なんだ。
話の通じる上司と通じない上司に同時に仕えなければならないなんて……。
残暑厳しい中、第一ほしふりビルに移転した総務部の執務環境は劇的に改善していた。
まず、本社のオンボロエアコンがいつおシャカになるか気にしなくて良い。
他部署に聞かれたら強烈な殺意を向けられそうだが……。
そして総務部に属する各課が余裕を持って再配置されたお陰で、以前までのように席と席の間の狭い通路でお見合いする心配が無くなった。
人事課長にはそれらがなんとなくだが心の余裕にも繋がっているように見えた。
ただ少し残念なことに――これもなんとなくだが――一体感という物が薄れたような気がしていた。
「ういっす」
いくら部下とはいえ、年上にこんな失礼な挨拶ができるのはこの会社でただ一人。
というより、世の中にもあまりいないだろう。
「何かご用ですか、社長」
「実はその頭脳明晰さなら上下左に出る者はいない人事課長にご用がありまして」
胡散臭い。
しかもツッコむのも面倒くさい。右はどうした。水本部長か?
ウチの社長がこういう回りくどい物の言い方をするときは、
「その内一人増えるかもしれないんです」
……まぁ、そんなところですよね。
「どこかの部署に異動か新規採用ですか?」
「新規ないしは異動って所です」
「答えになっていないですよ」
「いや、まだ鏡花さんにも話していないくらい固まっていないんです」
「ならなぜ私には先に?」
「私が忘れるかもしれないんで。あとは人事課長ならなんか良い感じにどうにかしてくれるかと」
だめだ、この人日本語通じないんだった。教育の敗北の塊みたいな人だったわ。
「……わかりました。どうせ所属は総務部でしょう?とりあえず心の準備はしておきます」
「頭いい人は話が早くて助かりますわ」
「嫌味ですか?」
「私の目を見てください。嘘をつくような目に見えますか」
「……見えますね」
「嘘が嘘で無くなる条件はご存じですか」
人の話を聞かない社長が、今度はなぞなぞを繰り出してきた。それに付き合う俺もヒマだな。
「なんですか?」
「嘘を本当にするか、最初から本当のことを言えばいいんです」
まともに答える気が無いとよく分かる期待通りの適当な答えに、さっさと仕事に戻ることにした。
「はいはい、わかりました。やっておきますよ」
「すいませんねぇ」
そう言うといつも適当で社長とは思えないその人は、いつの間にか姿を消していた。
そんなことには気づかずに、人事課長は、
(一名様ご案内、ってか。まったく……)
呆れつつも、まだ見ぬ入職予定者のためにひとまずは社員ロッカーの用意を考えるのだった。
名越に振り回されたり、そのお返しに『ありがたいお言葉』を訓示したりしていることの多い鏡花だが、夏の初めには過労で倒れる程度には多忙であった。
責任感の強いその性格や鏡花本人の実務能力の高さが災いしたものだったのだが、結果的に穴を空けてしまったその反省から以前にも増して自己管理を徹底するようにしていた。
具体的には、「鏡花、ちゃんと寝てる?」と目の下にクマを作ったタバサに問われて、
「ええ、もちろん。以前は一日四時間でしたが、最近は最低でも五時間は寝ていますわ」と自慢げに答える程度に。
(……なーんか微妙に少ない気がするんだよなぁ)
なんて口には出さないタバサ。
自分が寝不足で不健康な自覚はあるのだ。
多忙の極みを更に極めている鏡花の元には他部署からは当然のこと、部下である総務部三課長からも仕事がバンバン上がってくる。
ましてや今は総務部の先行移転を済ませて、次の受け入れ準備と勝手な動きに目を光らせていた。
だが約一名、勝手な動きをしている人間がいた。
代表取締役社長・名越一馬。
先日、「長屋さんの資料が多すぎるので独立書庫が欲しい」と言ってきた時には、素直に
(なぜ今言い出すのかしら……)
と呆れていたが、その後社長室や本社書庫で見せられた資料を見て承諾せざるを得なかった。
その量の多さもさることながら、質も問題だった。
『例のビル』に関する覚書や時系列資料。
行政や政治などの外部との、あるいは社内で行われた『非常に生々しいやりとり』の資料。
それら資料の中には当然、鏡花の実家である水本家に関するものもあった。
特に、名越と、口外しないことを約束した上で見せられた、『非常に生々しいやりとり』の資料は、わずか二、三ページ目を通しただけで「これ以上は心の準備が必要ですわ……」と鏡花がギブアップするほどの代物。
そんな特級呪物を封印する場所なのに、名越がなんだか妙に生き生きとしながら書庫の新設準備をしている姿は気になったが、
(あれならまぁ、仕方ありませんわ)
なんて、むしろあんな物と同居していることへの同情心が湧いてくるくらいだった。
その同情心は、普段は名越に手厳しい鏡花が珍しく手を緩めるほどだった。
管理課長から「社長からの依頼なのですが」と差し出された、名越の欲しいものリストに対しては、目を通していると思わず社長室で見せられた資料が目に浮かんでしまい、
「少し多い気がしますが、今回は大目に見て差し上げましょう」
なんて言って怪訝な顔をされて。
総務課長が「非常に面倒なことを仰せつかった」と顔に大書して鏡花に確認に来た際には、総務課長が皆まで言う前に、
「その件は承知しておりますわ。……部屋一つで済むならやむを得ないですわ」
とどこか切なそうな表情になってしまうと、体調不良を疑われ。
人事課長から『新規ないしは異動』の話を相談された際には、流石に名越に確認したが、
「今度小早川さんに、ウチを知っていてかつ口の固そうな人の紹介をお願いして、一時的に資料整理を手伝って貰おうかと考えているので、念のため」
と言われてしまうと、思わず天を仰ぎ見てしまい、怒り心頭かと誤解されてしまった。
よって鏡花は、名越たっての希望である書庫に気を取られつつも、着々と本社移転の交通整理と移転作業を進めていくのだった。
実務を進める鏡花達の裏では高藤が、日々回ってくる注文書や納品書、請求書、出金伝票といった、会社の血液に付けられた名札の集合体を俯瞰しながら小さな違和感を抱いていた。
――普段取引のない相手とのやりとりが増えている?
でも、ここ半年ほどはそんなの当たり前だった。
――日常業務の枠から外れた物品購入がある?
いや、第一ほしふりビルへの移転のための準備が進んでいるから妥当ではある。
――では、この立て替え出金伝票は?
請求者はバラバラだが、共通点はある。
全部『名越一馬』あるいは『名越社長』の文字が並んでいる。
これは偶然?
それとも……?
そこまで考えると、高藤の足は自然とある場所へ向かっていた。
第一ほしふりビルへの総務部移転後の鏡花は、ベイローレルに着任したばかりの頃と違って不安の色もなく、少し疲れが見えるが順調で充実した日々を送っている。
高藤にはそう見えた。
そう見えたからこそ、余計に不安が高まっていた。
「水本部長、この出金伝票の件で少々お聞きしたいことが」
差し出された出金伝票を一つ一つ丁寧に確認しながら、
「特に問題ないのでは?全て社長の書庫の件ですわ」
何の事は無いという風な様子で鏡花はサラリと口にした。
「……社長の書庫?」
手元の伝票を確認しながら、
「ええ、どうやら長屋社長から引き継いだ膨大な資料の保管場所が必要、とのことでしたわ」
声を一段低くして、伝票から顔を上げながら、
「『例のビル』、つまり第一ほしふりビルに関する資料などです、わ……」
そう言った鏡花の目の前には、先程までとは違い困惑した表情の高藤がいて、鏡花の言葉は尻すぼみになった。
何かがおかしい。
何がおかしい?
「聞いていませんね。……それに長屋社長の資料であるならば、いくら名越さんでも『これは軽々に動かせない』と分かっているはずです」
高藤のその言葉は、鏡花に一つの嫌な想像をもたらした。
まさか。
まさか、まさか。
鏡花は血相を変えて、本社四階の社長室にいるはずの『アイツ』に確かめるべく、脱兎の如く飛び出した。
同時刻。
所変わって、喫茶店『さくら』。
九月に入っても厳しい残暑が続く中、
「支局とも話して、今月いっぱいでベイローレルの『拠点』を引き払おうと思う」
タバサなりの筋の通し方だったが、たった一言が空調からの冷気を伝って窓際の席の周りを不穏な空気で包み込む。
「……あ、そう。まぁ、別に良いけど」
そう言うと名越はアイスティーに口を付けてしばらく黙り込み、
「そんで、どうするんだね?引き払った後は」
身構えていたタバサは肩透かしを食らったような形になったが、
「そうだね……。まだ決めてないけど、この街で取材を続けるか、それとも一旦実家に帰るか、どっちにしようかな、って」
淡々と答えた。
「左様ですか」
名越らしくない、感情のない返事だった。
「……帰るべ」
そう言うと名越が席を立ち、それにタバサも続いた。
本社に戻る道々は未だ陽炎揺らめく残暑だった。
鏡花と高藤が本社正面玄関のエントランスで待ち構えること数十分。
高藤は俯き加減で壁に寄りかかり、鏡花はその横で立ち尽くしたままだった。
飛び出したのは良かったが、肝心の答えを持つ人物が社長室に不在だった。
そして本社三階大部屋の『拠点』も不在。
いつもなら何も気にすることはない。
だが、鏡花には全てが疑わしく見えていた。
『アイツ』は一体何を企んでいる?
タバサは何を知っている?
一度疑念囚われると、残暑厳しい中で空調も効いていないエントランスで、何十分も人を待ち続けることすら異常だとは思わなくなっていた。
やがて陽炎の彼方から二人の人影が見えると、疑念はいよいよ頂点に達しようとしていた。
「このお暑い中デートとは、良いご身分ですわね」
第一声は敵意に満ちていた。
本社玄関に誰かがいると思ったら、その姿は鏡花と高藤。
その組み合わせの珍しさもさることながら、一体いつからその場にいたのか。
それにこの暑さのせいか、敵意に満ちた言葉の通り怒りからなのか、その頬は上気していた。
「……何の話?」
「またどうしました、こんなところで。今度は熱中症でぶっ倒れますよ」
鏡花と高藤の尋常じゃない空気に名越とタバサは不穏なものを感じるが、名越はなにも疚しいことは無いと言外に主張するように、気遣いの言葉を繰り出した。
だが鏡花にはもう、そんな言葉はどうでも良かった。
「……社長。社長のおっしゃっていた『書庫』とは一体何なのです」
その言葉に、名越の表情から何かがすっぽりと抜け落ちた。
「……そうですか。まぁ、いいでしょう」
そう言って踵を返すと、タバサ、鏡花、高藤の三人に背を向けて、名越はさっさと歩き出した。
「どこへ行くのです!」
「例のビル――第一ほしふりビルですよ」
振り向いた名越の表情からは、一切の感情が窺えなかった。
「少し早いですが、正解発表と行きましょうか」
第一ほしふりビルへ向かう道中、鏡花や高藤そしてタバサからも「どういうことだ」と幾度となく問いかけられても、名越は一切口を開くことは無かった。
迷うことの無い、しっかりとした歩み。
それでいてどこかゆったりとした足取り。
全てがどこか噛み合っていない。
なのに、不安定さの欠片もない。
三人に背を向けて歩くその姿は、まるで自身の導き出した答えに一片の迷いも感じていないかのようだった。
名越を先頭にした四人が第一ほしふりビルに着く頃には、いつしかまるで何かの葬列のような沈黙をまとっていた。
その一団は、一階のロビーにいた社員や来客を氷漬けにしたようにその場に留まらせながら、一心不乱に第一ほしふりビル四階の一角を目指していた。
どこを見ても何の変哲もないオフィスビル。
『例のビル』なんて言われてつい最近まで話の種にされていたのは、まるで遠い過去のよう。
そんな一見ただのオフィスビルの四階にある、ただの部屋の前。
その部屋のドアノブに名越が手を掛けた刹那、
「そこになにがあるの?」
再三に渡るタバサの問いに、名越はようやく口を開き一言だけ、
「うるさいヤツだねぇ……」
そう言ってドアを開け放った。
そこにあったのは、よくあるオフィスの一室。
先程まで息巻いていた鏡花は肩透かしを食らっていた。
「これは……?」
一部署が入るには小さすぎるが、ちょっとしたミーティングスペースと言われればそう見えるし、書類などを並べれば書庫にもなりそうだった。
そして高藤には、少し見方を変えれば、
「なんというか――」
執務室にもなる。
そのような空間に思えた。
何にでもなりそうで、何の部屋か分からない。
「……書庫は……?」
そんな無個性な部屋に思わず鏡花がそうこぼすと、
「ここ」
名越が投げやりに床を指差す。
「ここ、って」
と鏡花が戸惑っていると、
「鏡花さんにも見せた、あのドロッドロな人間の本性丸出しの資料あるでしょ。あれをここに置いて『も』完成です」
「でも……」
でも決定的な何かが足りていない。
そして、
(今、『も』って……)
高藤は名越の言葉に別の意図を感じた。
その横をすーっと通り抜けて、タバサが部屋の中央へ歩み出た。
鏡花の不足。
高藤の違和感。
そして名越の意図。
全てを繋げる最後のピースは、その部屋の真ん中に進み出た人影――タバサだった。
「で、これが何の部屋だって?」
抑揚のないその声とは裏腹に、なぜか落ち着いたような微笑み。
すぐにその表情は険しくなる。
「これはどういう意図の部屋ですか、名越さん?」
「どういう意図も何も、あんたの新しい拠点ですが」
対する名越は苦笑しながら、そう言い放った。
その言葉に真っ先に反応したのはタバサではなく鏡花だった。
「では、書庫の話は?あの資料をここに置く話は?わたくしが見せられた『正しい理由』は何だったのです!」
「あのねぇ……。あんなもの下手に動かすもんじゃないですよ。だからもうしばらく本社の社長室で眠っていてもらうことにしました」
名越は部屋の中央に立つタバサの方向へ向いていて、鏡花のことは二の次のようだった。
「それに、新しい時代には歴史と教訓は必要。でも、遺産は要らんでしょう?」
「…………………………………………」
絶句した鏡花を、目だけで捉えるその姿は、何か知らない別の人物のようだった。
部屋の真ん中では表情を失ったタバサと名越が向かい合っていた。
「で、さしずめ私は名越さんが作ったドールハウスの人形、と?」
「あんたがお人形さんみたいに黙して語らずなら、どれほど楽か。まぁ楽な代わりに面白くもなんともないのが玉に瑕だわね」
「……なにか言うことは?」
「ない」
「そう」
「で、どうするかね。今更だが」
「誰が使うか、こんな部屋」
吐き捨てるようにそう言うと、タバサは早足で部屋から去って行った。
「……さぁて、どうするかねぇ」
まるで他人事のような言葉を残して、名越もゆったりとした足取りで立ち去った。
やがて高藤がなにかを口にすることも無く本社へ戻ると、残されたのは、部屋と鏡花。
名越が造り上げた答えを前に、なす術はなかった。




