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故郷と呼べる場所   作者: 那珂湊
第四章 「夜明け」を運ぶ風
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第三話 深く、静かに、進む夏 前編

 茶番のあとは真面目にお仕事の話。


 主(あるじ)たる鏡花が戻ってきた総務部長席を、各々が椅子を持ち寄って丸く囲むようにしていた。

 鏡花から見て右から、管理課長、人事課長、総務課長、名越、タバサ、星野。

 気のせいか、一人だけ椅子ではなくゴミ箱に座っているように見えるのは、休み明けの弊害だろう。

(……ツッコんだら負けですわ)

 一つ深呼吸をして精神統一すると、あえてそれには触れず見なかったことにした。

 約十日振りの総務部長席から見る三階大部屋、それに見慣れた顔が並ぶ光景は改めて感慨深いものがあった。

(帰って、来たのですわね)

 星野は人事異動の件以来だったが、やはりあの両親の娘なのだろう。その芯の強さ故にあんな出来事も糧にしたのか、以前よりもその目に光を与えているようだった。

 タバサも相変わらずうっすら目の下にクマができているが、内に秘める意志の強さを感じられた。

 総務部三課長は、さすが最近は密かに『鏡花さん家(ち)の三家老』と呼ばれているだけあって、変わらず頼りがいのある姿だった。

(なのにこの方は……)

 それ故に鏡花を囲む半円の頂点にいる人物の残念さが際立っていた。

「おう、なんか失礼な視線を感じるな?やるか?」

 座っている物が物だけに一段も二段も低い所から鏡花に向けられる視線は、一段も二段も残念さに拍車を掛けていた。

 その残念さは自ら際立たせているのか、単に際立っているのかは分からない。

 少なくとも、

「この方を社長にしてよかったのかしら」

 ふと、そんな疑念を口にしてしまうくらいには残念な姿だった。



 鏡花の一言に噛みついた名越に『非常にありがたい言葉』のカウンターをお見舞いしつつも、鏡花の夏休み期間中でも会社は概ねキチンと回っていたという事実に、肩透かしのような、少し悲しいような、でも安心したような、なんとも言えない感情を鏡花は抱いていた。

 ひとしきりやられた名越が思い出したかのように、

「というわけで、ご苦労さんでした」

 と言いながら、ポンッとタバサの肩に手を置いた。

「なに?」

「君の役目は終わったのだよ」

「……今この場で私に取れる選択肢は二つある。名越さんが座っているゴミ箱を蹴飛ばして転(こ)かすか、謝罪の言葉を待つか。どちらがいい?」

「報酬は渡しただろう」

「あれで足りるとでも?」

(なんか久々に見た気がしますわ、このやりとり)

 なんだか微笑ましく思えたので放置しようかとも思ったが、総務部三課長と星野から、

『部長、仕事のお時間です』

 なんて視線を受けると動かざるを得ないのが大人(二十六歳)の悲しいところ。

「タバサさん。わたくしのいない間の臨時アシスタントを務めていただきありがとうございました。弊社の名越に代わりましてお礼申し上げます」

 そういって丁重に礼をすると、タバサも無下には出来ず、

「……報酬は鏡花の顔に免じて勘弁してやる。命拾いしたな」

 吐き捨てるように言って、タバサは拠点に戻ろうとしたが、

「はんっ、そんなんで良ければいくらでも頭下げてやるよ。ほら、ほらっ」

 ヘッドバンギングよろしく、名越は激しく頭を振った。

「……鏡花。この人、一思いにヤっていい?」

「いけませんわ。その人は天の邪鬼の極みですのよ?つまりこれは『してもし切れない感謝』があふれているのですわ」

 そんな冷静な分析を聞いた名越とタバサは、目を点にしていた。

「鏡花はすごいね。名越さんのせいで倒れたようなものなのに、それを擁護できるんだから」

「違いますわ。これ以上は面倒だから事態の収拾に努めているのですわ」

「だって。恥ずかしいね」

 名越を見下ろしながらタバサが言うと、

「日頃の行いって大事……」

 周囲の目から隠れるように名越はそそくさとゴミ箱を片付けるのだった。



 そんなすったもんだもありながら、また何か思い出した名越は、

「いやー、しかし大変だったんですよ、本当に。なんちゃらの一つ覚えみたいに、みーんな鏡花さん鏡花さんって言うもんで」

 なんて、鏡花がいなかった期間がいかに大変だったかしばらく熱弁を振るっていたが、

「しかもなんか知らんけど吊るし上げられるし」

 さらっと聞き流そうとしたが、聞き慣れない、そして聞き捨てならない言葉が混ざり込んだ。

「ちょっと社長、今なんて。吊るし上げ?どういうことですの?」

「おん?鏡花さん、吊るし上げを知らんのけ?吊るし上げってのはな、遥か昔、とある組織で流行った――」

「そういうことではありませんわ。なぜ社長が吊るし上げられるのですか?一体なにがあったのです」

 身を乗り出し気味に鏡花は名越を追及しにかかるが、当の名越は「余計なことを言っちまった」と言わんばかりに表情を歪めると、

「おい、タバサ。よろしく」

 目撃者にぶん投げた。

 鏡花の鋭い視線がタバサに向くが、

「ご自分でどうぞ」

 当たり前だがあくまで目撃者のタバサは、事情聴取は御免蒙ると当事者に投げ返した。

「……まぁ、現場も不満が溜まっているんですよ。そういうことです」

 渋々とばかりに、一言だけ答えると、

「はい、この話終わり。で、ですね――」

 結局鏡花の疑問にキチンと答えることなく次の話に移っていった。

(吊るし上げるに至るほどの現場の不満……)

 見過ごせない事態だからこそ、改めて名越を問い詰めてでも聞き出すしかない。

 そう考えたが、名越が切り出した『別途ご相談』の方がより鏡花にとって頭の痛い問題だったおかげで、その詰問が実施されることはなかった。



 少し?遠回りをしたが、引き継ぎや報告が一通り済むと、『別途ご相談』のため残った名越と鏡花以外は各自の仕事に戻った。

 夏休みの面影を感じさせないしかめっ面で総務部長席に座る鏡花。

 机を挟んで、ゴミ箱から椅子に座りなおした名越。

『別途ご相談』は、名越と鏡花の二人とも、遅かれ早かれそうなるし、やらなければいけないと考えていた出来事だった。

「なるほど、文書管理のセキュリティ問題、ですの……」

「そうなんです。高藤さんの言うとおりで現状は好ましくない、かといってこの建物ですぐにできることは無い。ならば小早川さんの提案である『第一ほしふりビルへの書類の引っ越し』が現実的な落とし所になる。ですから情報ダダ漏れよりはマシってことで、私の判断で経理関係書類のお引っ越しを認めました」

「その『お引っ越しの条件』が、わたくしと社長との事後協議、と」

「鏡花さんを無視したら、私がこうされそうですからね」

 冗談めかして名越は自身の首に手刀をあてがった。

「そんなことはいたしませんわ。もっと効果的な方法が他にもありますもの」

「ヤられはするのね……」

 冗談には冗談で返した鏡花だったが、復帰早々に頭の痛い問題を抱えることになった。

「……社長。単刀直入に申し上げますが、この件でわたくしに拒否権は?」

「そりゃあるでしょう」

 だが鏡花の問いはもっと根本的なものだった。

 つまり、

「形式的なものではなく、本当にわたくしが拒否した場合の話ですわ。……止められるのですか?既に動いてしまったものを」

 さすがの名越も即答はできなかった。

 鏡花の名前で予防線を張ったは良いが、実効性は?

 だが一番最初に会った時に『名前ではなく、水本鏡花という人物を求めている』と言った以上、名越の答えは決まっていた。

「……止められるのかではなく、止めるんです。例のビルに行った荷物も全てこちらの本社に戻す。少なくとも私はそう考えていますし、そうします。その時は『YES』か『はい』しか選択肢はありません」

 その答えの実効性はともかく、名越が本気でそう考えているとは伝わってきた。

(分かってはいましたけど、不安だったとは言え少し意地悪でしたわね)

 鏡花は少し考える素振りを見せると、

「仕方ありませんわ。わたくしがその場にいても同じ結論になっていましたわ、きっと」

「すいませんね」

「申し訳ないと思うなら、もう少しタバサさんを大事にしてあげてくださいな」

 鏡花がそう言うと、露骨に嫌そうな顔をして、

「前向きに善処するよう努力することの検討を加速します」

 そんなことを言うと名越は社長室に戻っていった。

(これで一段落、しないわね……)

 容易に鏡花には想像がついていたし、恐らく鏡花以外の人間もそう考えていた。



 大勢の人間が関係すると、時に事態は一人の想像なんて容易く越えてゆく。

 始まりこそ経理書類の保管というよくある小さな問題に過ぎなかったが、その問題の解決に第一ほしふりビルを使うという明確な力の方向性が与えられると、決定した本人の思惑とは違う方向に進みつつあった。

 それに気づいたときには手遅れなんてこともままある中で、早い段階で思惑と現実の違いに気づくことが出来たのは偶然だった。


 七月も末に差し掛かろうとするある日。

 いつの間にか梅雨も明けて夏本番。

 名越は連日の猛暑も物ともせず、行政その他の関係者との折衝や営業活動と精力的に社長業に勤しんでいた。

 外出する時には大体自社のバス・タクシーや鉄道路線を使うことが多い。

 その日もいつも通りバス移動を考えていたのだが、同行していた小早川が『お互い最近運動不足ですから』なんて言い出したものだから、仕方なく二人は社用自転車で移動していた。

 いくつか回った最後の訪問先を出た名越は真っ先に、

「なんでこんなクソ暑い日に自転車で移動してるんですかねぇ?私はそういう特殊な趣味は持ってないんですが」

 なんて愚痴をこぼすが、

「いつも涼しいところにいると、外に出たときにすぐに熱中症になりますよ。暑熱順化ってヤツですよ」

「慣れる前に熱中症でぶっ倒れますよ。どっか寄って休憩しましょう。すぐそこに例のビルがあるんで、あそこなら自販機ぐらいはあるんで丁度いいですよ」

 ひとまず小休止のために第一ほしふりビルに寄ることにした。


 最初に違和感に気づいたのは自転車置場だった。

「小早川さん、何か自転車多くないですか?」

「ウチの社員と違法駐輪でしょう。さあ、早く入りましょう。いや暑い、暑い」

「ならなんで自転車移動なんてするんですか……」


 一階ロビーに入ると違和感がまた一段強くなった。

「いやぁ、涼しくて天国だわ」

「ええ本当に。このビルに感謝する日が来るとはなぁ。……しかし社長、今日は随分と人が多いですね。なにかあったんですかね」

「いや聞いてないですね。この間の経理の書類絡みの作業じゃないですか?」

(高藤はもう作業は終わったって言ってたのに。おかしいな……)


 第一ほしふりビル・二階フロア。

 しばらく休憩した二人は、どちらから言い出すわけでもなく、うっすら感じた違和感の正体を探るように建物の上階へ上がっていった。

「ミーティングスペース、みんな結構使ってますね」

「ええ。元々本社は会議室も打ち合わせスペースも少なかったですからね。営業部でも今までわざわざ外に出ていたくらいですから。……まぁこの程度なら経費節約で一石二鳥ですよ」

「そんなもんですかねぇ」


 第一ほしふりビル・三階フロア。

 確認窓口とは別区画では、名越と鏡花が懸念していた現実が広がっていた。

「経費節約と言っても、これはさすがに……」

 各部署から集まっているであろう、荷物や書類が無造作に壁際に並んでいた。

「……今ウチの課長に連絡したら、『経理が使っているので、ウチも使って良いと思った』って言われました」

「まぁ、そう思いますよねぇ……。小早川さん、どうします?」

「どう、って……」

「遅かれ早かれこうなるとは思ってましたけど、見たらここにほぼ全部署の荷物とか書類がありますよ。無いのは総務部くらいですね。抜け駆けとは、みんなやりますねぇ」

 違和感の正体が無秩序に広がっている光景を目にして、この場で名越と小早川に出来ることはなかった。



 外回りから戻ってきた名越と小早川からことのあらましを聞かされた鏡花は、やはり、といった風にどこか落ち着いていた。

 別に何か今すぐ状況を改善できる術があるわけでも、荷物の再移動を命じようとするわけでもない。

 むしろ、第一ほしふりビルに確認窓口を設置して活用を決めた経緯からしてその時の合理性を重視した結果だったので、これもまたある意味合理的な行動として『さもありなん』と妙に納得していた。

 どうします、と名越と小早川から問われても、空いているから使っているのだからよろしいのでは、と思ってしまう。

 決して口には出さないが、現状が一定の合理性のもとで動いているならば自分には何ができるのですか、そう鏡花は感じていた。

 誰がやったか探し出して叱責する?でもその後は?

 確認窓口以外を完全に関係者以外立ち入り禁止にして閉め出す?閉め出した後の荷物や人の行方は?

 結局、出てきた答えは至って平凡なものだった。

「誰かが許可した訳でもない。でも、ほぼ全社分と言えるほどの荷物や書類があり、ミーティングスペースもフル活用している。ならば後手に回っているわたくしができるのは、今日までに運び込まれた物は動かさない代わりに、これ以上の第一ほしふりビルへの荷物、書類の移動は止める。その後は何が、誰の判断で置かれているか把握する。ミーティングスペースの利用は現状を考えると追認せざるを得ない。そのようなところですわ」



 タバサ・クライスタールは釈然としない思いを抱えていた。

 鏡花が復帰してから数日。とうに臨時アシスタントはお役御免となったはずだった。

 現に名越もそうアナウンスしていたし、星野も紆余曲折を経て秘書業務を本格始動していた。

 なのに、今日も「途中までタバサさんがやっていたので」とか、「これ一件だけなので」と、ひっきりなしにベイローレルの仕事が舞い込んでいた。

 タバサも本業に差し支えない範囲であればと引き継ぎも兼ねて対応していたが、さすがに今日のように本業に全く手を付けられない状況は看過できなかった。

 どこかで線引きをしなければと思いつつ、ズルズルとここまで惰性で仕事を受けてしまっていた己を呪いながらも、鏡花に苦情を申し立てるが、

「そうですわね。いくら先日までやっていたからとはいえ、タバサさんにウチの仕事をお願いするのは筋違いですわね。なるべくタバサさんに仕事をお願いしないようにいたしますわ」

 と鏡花にしては微妙に歯切れの悪い返事だった。

「なるべく?」

「……ええ、まぁ、なるべく」

 てっきり未だに体調が戻らないのかとタバサが心配するも、問題ないという。

 その後しばらく観察してみると、普段は切れ味鋭い鏡花にしてはなんだか返事も会話も鈍く、まるで思考が煮詰まってしまっているかのようだったが、それ以上タバサが踏み込むことはなかった。



「ということがありました」

「あ、そう」

 七月末のある日の夜。

 タバサから追加報酬を要求された名越は、少し高い酒でも飲ませておけば黙るだろう、と大分お高めのレストランでディナーと洒落込んでいた。

 そんな名越の機嫌が少し悪いのは、遅刻してきたくせに目の前で表情を変えずに『大分高い酒』=名越の給料を遠慮無く消費して行く物体・Tの存在。

 少し元気ないのは、思わぬところで足を取られている鏡花を心配していたからだった。

「体調不良ではないが煮詰まっている、ねぇ」

「そう。どうすればいいのか分からないって感じかな」

「そんなに悩むようなことあったかしら。最近あったことはせいぜい、例のビルに荷物を運び込んだ輩がいたくらいだし」

「名越さんがまたなんかやらかしたんじゃないの」

 アルコールが入ったタバサは殊の外ご機嫌なようで、少しばかり口が滑らかだった。

「なんだこの酔っ払い、失礼だな。なのにこんだけ飲んでも一切崩れないのが余計ムカつくわ」

「テーブルマナーには自信がありますので。そもそも良いお酒は酔わないの。酔うのは安酒」

「あ、そう」

 何度も聞いた酒飲みの謎理論に辟易としつつ、内心は戦々恐々だった。

(会計が怖い……)

「そもそも、臨時アシスタントはとっくに解任されたのに、なんで未だに私の所に仕事が来るわけ?」

「そりゃ、あんな便利なところに便利な人間がいたら、仕事の一つもぶん投げたくなるのが人情だろう。ましてや渋々だったとはいえ、ウチの仕事のことを多少なりとも分かっているとなれば尚更でしょうよ」

「私、やるなんて一言も言ってないけど」

「でも断らんのだろう?」

「それは――」

「あんた、私のことはぶった切ってばかりなのに、そういう変なところはお人好しだからねぇ」

「そうだね。鏡花にもぶった切られてばかりだもんね」

「へいへい、そうですね。……しかしまぁ、その鏡花さんも過労の次は考えすぎとは。頭が良すぎるというか、能力が高いってのも考えものだわね。とても本人の心が追いついているとは思えんのだが」

「なに、僻み?」

「よし、今夜はわしじゃなくて君のクレジットカードの限界にチャレンジをしようじゃないか、タバサさんよ」

 話はどんどん逸れつつ、夜は更けて行く。

 名越の財布へのダメージを重ねながら。



 八月になればいよいよ夏本番。

 外気温も四十度に達しようかという、言葉通り地獄のような暑さの中、三階大部屋は年代物のエアコンが悲鳴を上げながら冷気を吐き出していた。

 だが鏡花にとってその冷気は涼しいを通り越して『寒い』とすら感じられた。

 ただの冷房の効き過ぎだと思いたかったが、別物だった。


 鏡花が恐れていた事態は思っていたよりも早く、だが計算通りにやってきた。


 五月末に晴れて確認窓口開設までこぎ着けたまでは良かった。

 開設当初、第一ほしふりビルにやってくるのは確認窓口に用事のある社員とそれを受ける総務部の社員だけだった。

 それが六月に入ると少しずつ風向きが変わってきた。

 確認窓口へ来たついで、本社だと話しづらい内容だから、本社の会議室が埋まっているからと、色々な理由を付けて空いている二階で打ち合わせをし出した。

 どれもそれだけなら取り立てて止めたり咎めたりするようなことではなかったし、名越や鏡花をはじめとする面々も役員人事の件ではお世話になっていた。

 六月も半ばを過ぎた頃にはなんとなく「どうせならここで」という趣旨の言葉を耳にすることが増えた。

 本社に戻るより早い。駅から近い。部屋が空いている。確認窓口もあって総務の人間もいるのでなんとなく事務所感がある。

 聞けばどれも概ねその通りと思えた。


 誰かが積極的に第一ほしふりビルへ本社機能を移そうとしたわけではない。

 ただ「今回だけ」、「今日だけ」が二ヶ月近く積み重なった結果が、七月終わりに名越と小早川が見た現実。

 それだけのことだった。

 一度は差し止めた第一ほしふりビルへの物の動き。

 だが遅きに失した感は否めず、人の動きは追認せざるを得なかった。

 七月の時点で既に、第一ほしふりビル二階のミーティングスペースの利用は本社の各部署全体に広がりを見せていたが、今や完全に本社の外部会議室の様相を呈していた。


 そうなると出てくるものがある。

 八月頭のある日の昼下がり、本社休憩室の窓際隅で息を潜めて目立たぬよう額を突き合わせている男性三人に女性一人。

「他部署の人間と話していると最近は毎日のように話に上るんです。『なんで使えそうな場所を使わせないんだ』とか『あそこ使えたら便利ですよね』とか」

 一番年かさの男性――総務課長がため息交じりで、女性――つまり鏡花に伝えていた。

 内容は至ってシンプルで、つまるところ『差し止めの例外を認めてほしい』という要望の数々だ。

 要望と言えば聞こえが良いがその実、総務部三課長を通した『社内からの圧力』と鏡花は受け止めていた。


 社内外の声を最前線で受け止める総務部三課長の元には、日々様々な声やご(・)意(・)見(・)ご(・)要(・)望(・)が集まる。そしてどの組織にも一人は少(・)し(・)ば(・)か(・)り(・)ア(・)レ(・)な(・)人(・)はいるもので、時折とてもそのまま直接鏡花に伝えられないような言葉があるのだ。

 物の言い方、言葉遣い、内容――多岐に渡るそれらを、相手の言いたいことは崩さずに現代風にアレンジして鏡花に伝えるのも密かな彼らの使命だったりする。

 だが時折それをオブラートに包み込みきれない時もある。

「……あまりこういうことは言いたくないのですが、各部署だけではなく総務部内からも、他が既得権益として使っているのはずるい、なんて話まで出てくる始末です」

 人事課長の言葉はだいぶマイルドにしたものだが、他部署の人間が半ギレになって彼に鬱憤をぶつけてきた時は一触即発だったと、管理課長を通して鏡花は耳にしていた。

(本社の人間で、人事課長は『色んな意味で一番怒らせてはいけない人』と知らない人間はいないはず。なのにケンカ腰になる程の不満……)

 そして鏡花の元には、他部署の部長クラスからのそういった声も既に届いていた。聞けば確かにと思うような機密書類や、本社に置くより第一ほしふりビルに置いた方が良いと思う資機材類。それらの話をいくつか個別で聞くと、合理性を考慮すればやむを得ないと認めざるを得なかった。

 全部聞いていたら合理性だけでは処理できない、しかし即断即決もできない。

 そして

(ただ例外ばかり認めていては、もう保たない)

 鏡花は苦しい胸の内を吐露するように、

「わたくしに考えがありますの。……あまり良い手とは言えませんが」

 おもむろに総務部三課長に向けてそう切り出した。


 彼女は選択を迫られていた。


 総務部三課長は鏡花の私案に驚きつつも反対はせず、最終的には『その後に来るはずの事態への訓練だ』と苦笑していた。

 急なことなのでいくつか実務的な修正が加えられたが、長屋や名越といった『もっと予測不能』な人間に鍛えられていたことが、功を奏して(?)、「こんなこともあろうかと」とばかりに各自が用意していた私案や知識そして経験を総動員し、やがて一つの形をなしていった。

 そして鏡花の私案から始まったその一つの形は今、名越の手元にあった。



 社長室の応接セットに鏡花と向かい合って座る名越からは、いつものいい加減さは感じられなかった。

 非常にダメな人としての名越を見慣れた鏡花にとって、別人に感じられるほど名越は真剣に話に聞き入りつつも、時折目頭を押さえたり、机に資料を置いて手を組みながら右手で頬杖を突いた姿勢になったりと、頭の回転数が上がると共に忙しなく上半身が動いていた。

 一通り鏡花の説明が終わっても名越は一言も発さずに、瞑目したり虚空に視線をさまよわせたりしつつ、思考を巡らせているようだった。


 その間社長室は沈黙につつまれていた。

 時間にして五分ほどだったはずだが、長い、長い、沈黙。


 やがて少し俯き加減で資料に目をやっていた名越は、目だけで鏡花を見据えると、

「いいんですか、それで」

 一言、そう問いかけた。

 その左目をわずかに吊り上げた鋭い視線は、鏡花を逡巡させるには十分な効果を持っていた。

 だがいくら考えても、結局その問いに対する答えは決まっていた。

 名越の目を真っ直ぐ見据えて、

「はい」

 一拍、二拍置いたが、

『必要だからやる』

 それが鏡花の選択だった。

 その選択への名越の答えもまた、

「そうですか」

 それだけだった。


 すっと、名越は胸ポケットから二本のペンを取り出した。

 片方は普段から愛用の三色ペン。

 そしてもう片方は、軸が青色の見るからに良質そうなペン。

 少しだけ考える素振りを見せると、普段使いの三色ペンを胸ポケットに戻して、軸の青いペンを矯めつ眇めつしていた。

「昔、長屋さんに『いつか駅長になった時のために考えておけ』って言われたときは、時代劇かよって思いましたが――」

 手にしていた資料を応接テーブルに置いて、右肩に「可」の一文字を書き込むと、

「使うときが来るとはねぇ」

 花押をしたためる。

「最終的に責任を取るのは私ですからね」

 そう言うと、いつになく真剣な表情で花押入りの資料を鏡花に差し出した。


 その資料を受け取ると鏡花は一礼して、社長室を辞去した。

 手にした資料は名越の花押入り。

 口ぶりからして恐らく、初めて花押を使ったのだろう。

 そしてそれをしたためるために使っていたペンもまた、滅多に使わないものなのだろう。

 その意味するところは推し量るしか無かったが、

(重い、ですわね)

 本社移転先を決める作業は、既に候補の絞り込み段階まで進んでいた。

 その候補の一つに総務部が乗り込む。それは本社の移転先が決まったと見られるだろう。

 自身の選択の重さ故か、その表情は珍しく歳相応のものだった。

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