第二話 夏の色は、私の色 後編・中
・鏡花の(不本意な)夏休み その7
翌朝。
少し遅めの朝食を摂った鏡花は、佐藤あかりを逮捕、もとい接触すべくフロントへ向かったが、残念ながらもぬけの殻だった。
「お客様申し訳ありません。姉は突然歯が痛くなったとのことで、面会謝絶となっております」
「本当は?」
「朝五時に起きて犬の散歩。朝食の後は私の子供達を学校へ送って、今頃は自室で二度寝しております」
「あの方は本当に……」
呆れた様子の鏡花に、
「本当に申し訳ございません。ただ姉から、『昨日の運賃とタクシー代は、帰る時に払うから』との伝言を預かっております。……姉の分は必ず自分で払わせますので、何卒」
昨日に続いて今日も姉の代わりに平身低頭する支配人の姿が気の毒に思えてきたので、さすがの鏡花も、
「仕方ありませんわね」
と矛を収めるしかなかった。
(まったく、弟さんにこれほど迷惑を掛けるなんて。姉失格ですわ)
と思いつつも、弟の心姉知らず。
姉という絶対権力者に弟は逆らえないのが世の常。
鏡花もそれなりに弟に苦労をかけているのだが、それを知る由もなかった。
「ですが、どうしましょう」
「なにか、お困り事でも?」
「いえ、佐藤さんをとっ捕まえ……」
……コホン、と咳払いを一つ。
「お会いする所までしか考えていなかったので、この後の予定をどうしたものかと」
鏡花の本音混じりの悩みを聞いて、佐藤(弟)支配人が考えることしばし。
「でしたら、水厳寺などいかがでしょう。川の向こう側の山中にあるので、少々離れておりますが」
「水厳寺、ですの?」
聞いたことのない名前だがこの地の古刹のようで、有名な寺ではないそうだが、鏡花がパンフレットを見て、
(そういえばこんな駅名、路線図にありましたわね)
と思い出すくらいには知名度があるそうだ。
「当館のお客様にも水厳寺への参詣が目当ての方もいらっしゃいます。門前までバスもありますのでよろしければ」
どうせ暇なら支配人のおすすめに従うかと、鏡花は準備を整えてその古刹へ向かってみることにした。
バスを待つ間パンフレットを流し見ていると、水厳寺という寺は駅から温泉を経由してバスで本堂の門前まで行ける交通の便利さが売りのようだった。
だがバス停で居合わせたご婦人方曰く、山の麓には参道口があるらしく、それは山中の森を石畳や石段で通り抜ける軽い登山のような道。
この時期のむせかえるような新緑を目にし、道中の沢の水音を耳にし、滝のしぶきを浴び、厳しい石段を一歩一歩踏みしめる、だがそれで心身共に健やかになるそうな。
普段の鏡花なら聞き流して、素直にバスで本堂の門前まで行くのだろう。
だが暇は時に人を狂わせる。
ご婦人方と共に鏡花は山の麓の参道口でバスを降りてしまった。
かたや朝から元気なご婦人方。かたや昨日退院したばかりの若者。
そして目前の山門越しに見えるのは石段。
「よし、行きますわよ」
新緑が眩しく、沢の水音が音を支配し、滝のしぶきが身を清める。
石段を一歩一歩登る毎に俗世の些事が身体から下界に向かって去りゆく。
まさに参道。
そして、石畳と石段以外はまさに山道。
鏡花は体力には自信がある方だと思っていたが、さすがに病み上がりには無茶だったようで、ゆっくり歩いて一時間の道のりを、休み休みで二時間弱。
ようやく本堂の門前にたどり着く頃には肩で息をしていた。
唯一の救いは、同道したご婦人方がペースを合わせてくれたので一人ではなかったことと、長目の休憩を都度入れて色々と世話を焼いてくれたことだった。
(さすがに無茶しましたわ……)
一息ついて参詣を済ませると、どうやらご婦人方はこれから更に山奥にある奥の院と呼ばれる所へ行くとのこと。
鏡花が道中のお礼を述べると、
「お嬢ちゃん、無理したらダメよ」
と笑いながら釘を刺されてしまった。
ご婦人方を見送ると境内はセミの鳴き声以外聞こえなくなった。
しばらくぼーっと境内を眺めていると、ふと僧侶と目が合って、
「暑いでしょうから、本堂へどうぞ」
そう勧められるがまま畳敷きの本堂に上がると、何台も置いてある扇風機の風が少しだけ夏の暑さを和らげてくれた。
本堂に鎮座する仏像。
脇には様々な仏具。
さらに本堂の奥には様々な仏像や書、絵画が並べられていた。
極彩色の絵画もあれば水墨画もある。
般若心経もあれば達筆なくずし字で読むのに一苦労しそうな書物もあった。
「……将進酒……」
そしてその中には、古代の有名な詩人の詩があった。
「『君見ずや、黄河の水天上より来たるを。
奔流海に到りて復回らず。
君見ずや、高堂の明鏡白髪を悲しむを。
朝には青糸の如くも、暮には雪となる。』
と言ったところです」
その声のする方へ振り向くと、先程本堂に招き入れてくれた僧侶だった。
「つまり……」
「酒宴の詩、ですな」
「……よりにもよってお寺に酒宴の詩ですの?」
「ええ。よりもよって」
そう言うと僧侶はカラカラと笑った。
「ですが、当山においては本尊や経典に次いで古い物でしてな。江戸時代中頃の当山一帯は水本藩領の飛び地でして。ある時、この地を訪れた水本のお殿様が当山にこの書を残されたのです。詳細は伝わっていないのですが、当山とこの地を随分とお気に召されたからだとか」
「変わったご先祖様ですわ……」
思わぬ所で我が家の歴史に触れて少し気が緩んだのか、うっかりそんなことを口にしたが、
「……?」
「いえ、なんでもありませんわ」
僧侶は特に気に留めることもなく、書物の説明を続けた。
「君見ずや……」
ポツリと鏡花はつぶやくが、
「……本当に変わったご先祖様ですわ」
その後は境内を散策した後、水厳寺を後にしてあかり屋旅館に戻った。
もちろんバスで。
鏡花が部屋に戻った頃にはまだ午後だったが、無茶をした代償か、軽くシャワーを浴びて部屋で横になっていたらいつの間にか窓の外は真っ暗になっていた。
幸か不幸か既に筋肉痛が来ており身体はバキバキで、動かすのも億劫だった。
食事の時間もとうに過ぎており今夜は夕食抜きかと覚悟して、フロントに連絡することしばらく。
温かい食事が出てきたのには、感心せざるを得なかった。
(ここは本当にあの佐藤さんのご実家なのかしら?)
適温適量の夕食のあと、改めて布団の上でうつらうつらしながら考えていた。
(結局、今日は何をしていたのかしら……)
結局その日はそのまま眠りに就いてしまった。
暇だったから何となく寺へ行って、疲れたから昼寝して、腹が減ったから食事をして、そして寝落ちする。
鏡花の人生にとってこれほど緩い一日は、あまり記憶になかった。




