第二話 夏の色は、私の色 中編・中
・鏡花の(意図せぬ)夏休み その4
入院療養生活も三日目に入ると、昨晩、今朝と立て続けに同室に入院があったため『広い病室を独り占め』ではなくなったが、三階大部屋という混沌とした空間で仕事をしていたためか、むしろ徐々に日常へ戻っていると思えて、鏡花は少しだけ安心していた。
(広い部屋に独り。悪くはないけど、わたくしにはまだ早いわ)
自分が一人暮らしをしている部屋や実家の自室など、過ごしてきた部屋の数々と昨日までの病室を比べたりしながら、暇つぶしに病院内を散歩していた。
昨日の昼前から今朝までぐっすりと眠りについていた鏡花の体力は、何時しか病院内を歩いて回れるほどには戻っていた。
病棟ナースステーションの横を通りがかると看護主任の佐藤に、総務課長である星野の父、直行との昨日の病室での騒ぎを謝られたが、
「やはりあのくらい騒がしくないと落ち着きませんの」
なんて笑顔で返せる程度には心の余裕も戻ってきていた。
患者、医師、看護師、パラメディカル、事務。
様々な職種と病院内ですれ違った。
途中、直行が何人かの職員と共に、何事かをがなり立てている患者とおぼしき男性の対応をしていた。
「ご不便お掛けして申し訳ありません。ですが、ここには他の患者さんもおられますんで……」
そう言う直行の額には青筋、目には怒りの炎と、言葉とは裏腹に腸が煮えくりかえるといった具合だったが、鏡花を見ると、
(どうも)
と目礼をする余裕はあるようだった。
(どこの職場も大変ですわね。今度、二水会があったら星野さんの会社での様子を聞かせて差し上げましょう)
そう心に決めて直行の横を通り過ぎた。
昨日、眠りに落ちる直前に二水会の存在を聞かされ、
「最近はどこも多忙なせいか中止が続いてますが、復活したらよろしくお願いします」
と挨拶されていた。
今後も接点があるのなら、手土産があった方が円滑だ。
……星野には申し訳ないが。
そんなことを考えながら、院内散歩を終えて病棟に戻ってきた。
(僅か二、三日とはいえ、寝てばかりだとさすがに体にきますわ)
首、肩、腰をグリグリ、バキバキとやっていると、病棟の隅にある小部屋が目についた。
最初は物置か何かと思ったが、部屋から看護師の佐藤と星野の母の声がする。
「晴名さん、星野課長から厚生局の監査が来るから各病棟は書類とカルテに漏れがないか総点検しろ、って無茶振りが来たんですけど」
「じゃ佐藤、よろしく?」
「拒否権は?」
「ない」
「マジ何なのこの夫婦。水本さんに星野家の恥ずかしい話を吹き込みますよ?」
「私は看護部の方の準備しないといけないの。瑕疵があって返還請求されたらどれだけヤバいかは、貴女の方が分かってるでしょ?」
「絶対、星野家裏話を吹き込まなきゃ」
地名としての『水本』と聞き間違えとも考えた。
だけれども、自分の名前が聞こえたならば、気になるのが人情で。
思わずドアをノックしていた。
「あら、水本さんこんにちは。どうされましたか?」
ドアを開けたのは星野の母、晴名だった。
晴名の隣では佐藤が、「やべぇ」という顔で立っていた。
見ると室内は二、三畳ほどしかない文字通りの小部屋。
ラップトップPCが二台に机と椅子と棚、そこに所狭しと荷物や本が詰め込まれており、さながら秘密基地のようだった。
「聞き耳を立てるつもりはなかったのですけれど、わたくしの名前が聞こえた気がしたもので」
「……佐藤」
「……はい」
晴名に呼ばれた佐藤は、前に進み出ると
「大変、申し訳ございませんでしたっ」
土下座せんばかりの勢いで頭を下げたが、
「それではとても足りませんわ。そうですわね……星野家裏話をお聞かせ願えるならその謝罪を受け入れますわ」
そう言って悪戯っぽい笑顔を佐藤に向けると、
「お客さんも人が悪いわぁ。あれは私がここに入職した頃なんですけどね――」
「佐藤……」
大きなため息をひとつ。
「貴女は仕事に戻りなさい。……水本さんは患者さんなんですから、今すぐベッドに戻りましょうか」
晴名が『混ぜるな危険の意味を知ってしまった』とでも言いたげな目を二人に向けると、
「そんな殺生な」
「良いではないですの。リハビリの一環ですわ」
「佐藤、そんなに余裕ならお風呂の後片付けでも手伝ってきなさい。水本さんはこのまま戻ってバイタル測りましょう。……まったく、この二人は」
強制的に解散させられる寸前、晴名の机の上にある写真が鏡花の目についた。
「あの写真は?」
その声に晴名と佐藤の視線が、鏡花の視線の先に向いた。
写真は、小川の両岸に咲き誇る満開の桜、その下で佇む幼子と男性。
「それですか。まだ華音が小さい頃の写真です。右の物体はウチのダンナです」
「……良い写真、ですわね」
「ええ……。時折ですけどその頃に戻りたくなるんです……」
「……え?」
鏡花が見たその時の晴名は、昔を懐かしむ以外の感情があった気がした。
病室に戻った鏡花は大人しくベッドに横になっていた。
「一応入院中なので、少し元気が戻ってきたからって病院宛にデリバリーは頼まないでくださいね」
よく分からない注意をすると晴名は、病室から去って行ってしまった。
(あの写真は、ただ星野さんのお母様が、星野さんと星野さんのお父様を撮った写真ではないのかしら……)
小部屋を追い出されるときに一瞬だけ見た晴名の表情は、自身の父母では見たことのない親の顔だった。
午後になると医師と共に再び晴名はやって来た。
――検査の数値もある程度正常に近く、回復と言うには早計だが、退院して自宅療養であれば問題ない――
それが医師の判断だった。
晴名と鏡花は退院の日程調整をするため、とりあえず職場と相談してから日取りを決めようと、病棟ロビーに出て名越に電話をしたが、反応は予想外のものだった。
「え?戻る?ムリ。もう十日くらい休んだら?タバサ投入したから大丈夫、多分。じゃ」
意味不明だった。
(戻る場所が無い……?)
(タバサ投入したから大丈夫……?)
名越の言葉が耳元で未だに聞こえる気がした。
電話を片手に茫然自失している鏡花に、晴名がとっさに、
「……別の方に電話してみたら?」
そう言ってくれなければ、思わず涙していただろう。
総務課長とタバサに連絡を取った結果を要約すると以下の通りらしかった。
一つは、既に鏡花が二週間程度は戻らない前提で業務を組んでいるので、急いで復帰せずにゆっくり休んでほしい。
もう一つは、その間の業務は、応援要員を確保したし、タバサも臨時アシスタントとして業務に組み込まれたのでしばらくは何とかなる。
最後に一つ、名越は徹底的に再教育しておく。
それを聞いてようやく理解したが、電話の最中の鏡花は気が気ではなかった。
そして状況を理解した鏡花は、晴名にひとつアドバイスをもらった。
「教育の足りないヤツは、こう!」
そう言って晴名は見事な右ストレートを繰り出した。
その姿を見た鏡花は怒りの形相のまま黙って、虚空の彼方にいる教育の足りないヤツに向けて右の拳を突き出した。
・鏡花のいない夏 その4
主のいない総務部長席。
その前で直立不動の名越を、タバサと総務部三課長が取り囲むようにしていた。
「……名越君。先程私のもとに鏡花から、『わたくしの戻る場所はこんなにもあっさり取り上げられてしまうのですか?』と悲痛な電話がありました。若干涙声だったよ。これについて異議は?」
タバサが何やら物騒なものを片手でポンポンとしながら名越に尋ねるその姿は、さながら尋問官。
「はい。ありません」
タバサは名越の上から下までじっくり見ると、ふぅむ、と一言漏らした。
「水本部長は病人である、という認識は?」
次いで総務課長がまるでインタビュワーのようにペンを突き出し、名越に問うた。
「はい。あります」
射殺さんばかりの視線で名越を見つめながら、なるほど、と全く納得していない表情になった。
「では、単に鏡花に療養を勧めるためだった、と」
「はい。電話に出たときにたまたま便所におりましたので、気の利いたことは言えませんでした」
「なるほど……」
そう言いながらタバサは名越の前を何やら物騒なものを手にしながら行ったり来たりしていたが、
「……星野さん」
「はい」
気を付けの姿勢でタバサの横に立っていた星野が返事をすると、
「ひとまずコイツを重営倉(社長室)へ」
「……承知いたしました」
星野の手により名越はグイグイと押されて行った。
「なんでだ!わしゃ、鏡花さんに事情説明をして、療養に努めるよう説得しただけだぞ!」
「それがいけないんでしょ!」
その場にいた全員に総ツッコミをされながら、名越は重営倉(社長室)での説教つき労働に処された。
翌朝、解放された名越は、
「えれぇ目に遭っただ……」
と言いながら、半日以上振りに三階大部屋に現れた。
「少しは他人の心が分かるようになりましたか?」
いきなり人事課長に刺された名越は、右手で腹部を押さえると、よろめきながら手についたもの(ついてない)を確認して、
「なんじゃこりゃー!」
そう叫ぶと、そのままその場に倒れ込んだ。
その上を容赦なく何人もの社員が非常に邪魔そうに跨いでいった。
「古いねん」
管理課長がうるさそうに顔をしかめると、面倒くさそうに席を立った。
人事課長と管理課長が実に面倒臭そうに名越の様子を確認すると、どうやら、徹夜で仕事をしていた(させられていた)のか、倒れ込んだ名越は爆睡していた。
「邪魔だな」
「邪魔やな」
二人して名越を持ち上げると、とりあえず家主不在のタバサの拠点にすっころがしてしまった。
とても社長に対する扱いとは思えないが、鏡花の留守居を務める家老達を怒らせたにしては、穏当だったのかもしれない。
こうして名越は、タバサ並びに総務部三課長の手により、徹底的な再教育が施された。
その日の午後、取材から戻ったタバサにたたき起こされた名越は拠点から社長室に戻るのも面倒臭いと、その場でお気に入りの丸いゴミ箱に座りながら書類に目を通していた。
留守居の総務部三課長は、タバサの監視下にあればそれで良いと考えたのか、何も言わなかった。
「おい、タバサ」
「なに」
「なんか欲しいものあるか?」
相も変わらず何の脈絡もない名越の質問に、
「自由」
それだけ答えるとタバサは、取材のまとめと臨時アシスタントの同時作業に戻った。
「……平等と博愛は?」
「革命をご所望なの?」
「お前が言える立場じゃないだろう……」
「じゃあ何なの?」
「いんや、なんか最近物欲しい系の稟議が増えたなぁ、って」
「……それだけ復旧に必要な物が多いんでしょ」
「いやどっちかって言うと、その先な気がするんだよねぇ」
なにやら名越がまともなことを言い出したので、タバサは思わず手を止めた。
「その先……?」
「そう、その先。例えばだ、あんたがここに来たばかりの時は、燃料、人員、材料とまぁ雑多ながら、平たく言えば生活必需品みたいな今手元に無いと困るような物が多かったわけだ。しかしながら最近は、やれアレの更新時期だがら新しいものとか、新規契約を取ってきたから必要な手当をとか、まぁよく言えば前向き、悪く言うとよく分からん物が増えたんだわ。感覚だがね」
なるほど、確かにタバサも取材をしながら薄々感じていることがあった。
災害は、長い目で見ると終わっていない。
だけど、右往左往していた時より落ち着きは戻ってきている。
……現に右往左往の末にゴミ箱を蹴っ飛ばしたはずの人間が、今は悠然とゴミ箱に腰掛けている。
「さて、これを鏡花さん無しで処理するとなると、ちと考えものだな」
「どうするの?」
「そうだねぇ……。最低でも書面だけじゃなくて、現場を見るなり、事情聴取するなりして、あとで鏡花さんに説明できるようにはしないとねぇ」
「説明……」
なんだかタバサには意外に思えた。
「とりあえず、ハンコ突いておきゃ終わるべ!」
とか言い出すかと思っていたのだ。
「なら、見に行く?」
「何を」
「現場」
「私の経験上、現場に出る事務屋ほど煙たがられるものはないんだけどねぇ」
「じゃ、私が勝手に回るから名越さんは勝手についてきて」
「随分と自由だな」
「自由が欲しい、って言ったからね」
話の流れとは言え一本取られた名越は、
「ご随意に」
そう言うしかなかった。
翌日。
車のハンドルを握る名越は、何となく釈然としない思いを感じていた。
「ついてこいって言った人間が、なんで助手席にいるんですかねぇ?」
「昨日から浮かない顔をしている人に、気分転換してもらおうと」
「ヘルメットやら安全帯やらの積み込みとかのお外に出る準備も、さっき寄ったホームセンターでの買い物を手伝わないのも自由と?」
「誰かさんのお陰で、ものすごく忙しいもので」
「……左様でございますか」
「あんなに買う必要あったの?」
「まぁ何人いるかも分からんからな。現場に行くなら飲み物くらい持って行かにゃ、何しに来たって言われるべ」
行き先に一抹の不安はあったが、『ご随意に』と言った以上、口出しするのも野暮。
車のナビが示す地点に土地勘こそなかったが、現場名として目にしていた。
昨日いくつかの候補からタバサが「ここにする」と即決したのは、
『水本臨海鉄道鴨潟地区(7)信号通信機器室他改築工事』
何があったのか、立花と小早川を経由して大まかに名越の耳には入っていた。
(知ってか知らずか分からんが、コイツのことだから何かしら知ってるんだろうなぁ……)
途中で寄りたい場所があると言ったタバサが示したのは、名越の知らない場所だった。
国道沿いの小高い丘。
本来は立入厳禁の線路上を歩いて南に下った地点。
すっかり錆びたレール。
夏草が生い茂り線路敷を侵食しつつある。
徐々に開けゆく視界の先にある景色は変わらず荒涼としていた。
先へ、遠くへ、伸びゆくはずのレールは、足元のすぐ先で切り取られていて、二人の前には、草むした線路敷だったとおぼしき直線だけがうっすらと伸びていた。
タバサがこの場所に来るのは三回目。
最初は入江の案内で。
次は一人で。
そして今日は、名越と。
しかし、タバサには変化があったようには見えなかった。
三度目でも、初めてこの場所に来た時と変わらなかった。
「風が強いね……」
「こっちも早く手を付けたいんだがね。中々……」
「……長いね」
「……長いですよ」
途中、小一時間の寄り道を含めて本社のある水本市より南へ向かって下道を車で二時間ほど。
目的地に着く頃には、いつの間にか昼前になっていた。
(列車なら最速二十八分なんだがなぁ……)
そうボヤきながら、ヘルメット、安全帯、長袖、長ズボンに安全靴という、安全パトロールスタイルを整えた名越は、同じ格好のタバサと道中買った荷物を抱えて、『水本臨海鉄道鴨潟地区(7)信号通信機器室他改築工事』の現場事務所の扉を叩いた。
「お邪魔します。ベイローレルの名越と申しますけれど……」
前日には連絡があったとは言え、通常は工事の中間検査など決まったタイミング以外にあまりない工事発注側の人間の訪問。
先日トラブルがあって小早川の仲裁が入ったばかりの現場事務所は、ピリついた空気感だった。
現場所長に挨拶をして途中で買った差し入れを渡し、現場監督から工事概要の説明を受けた後は現場のパトロール。
「何か、釘とか金物がやたら落ちてますね」
(いくら基礎型枠でも、こんなボロボロのパネル使って大丈夫か?)
「あそこで作業してる鉄筋屋さん、脚立で立ち馬の代わりにするのはちょっと……」
などと門前の小僧程度の感想を述べていた名越がタバサに目をやると、特に写真やメモを取ることなく工事現場を観察していた。
(気にしすぎか?)
てっきり、この現場であったトラブルをタバサが掴んでいたと思っていたので、少し肩透かしを食らった気分だった。
工事自体は工程通りだが、
「この時期ですので、熱中症とかには注意してくださいね。……それと暑さもですが、あんなことがあったばかりで、みんな気が立っていて大変でしょう?」
何となく空気の悪さを感じたので、何か言われても「先だっての災害のことです」と言えるような薄い探りを入れてはみたが、
「工事はおおむね順調です。何か問題があればご相談はさせていただきますので」
当たり前だが正直には答えてくれなさそうだった。
「では、引き続き安全に留意して、よろしくお願いします」
名越とタバサが現場事務所を辞去したのは、昼休憩ギリギリの時間。
梅雨が明けたような空の下、とりあえず昼食に向かうべく二人は並んで歩いていた。
「なんというか、消化不良だな」
「何が?」
「んー、いや、まぁ、別に」
「あ、そう」
名越の独り言をタバサが気にする様子はなかった。
「メシどうすっぺ?」
「タロイモ」
「……ねぇよ」
いつも通り。
だから名越から探ることもなく、タバサからも探られることもない。
(あの現場を選んだのはただの偶然だったのかね)
(それとも本当にただ、『自由が欲しかった』からだったのか?)
そんなうっすらとした疑問は、その後思い出されることはなかった。
「こういうことを言うべきではないと分かっていますが」
名越の人生で、話し相手がこの前置きをした時は決まって、
「『今更』ですが何かご用ですか?」
例外なく、相手が怒りや負の感情を抱いていた。
水本駅から南に四十キロメートルほど離れた街、鴨潟市。
その中心駅にして、水本駅から南下する途中で途切れたレールが復活する駅、鴨潟駅。
その駅舎から少し離れた砂利敷きの空き地に、二階建ての仮設建物があった。
『水本臨海鉄道 鴨潟地区復旧工事事務所』
その看板を見たタバサは、見慣れない名前と見慣れたエンブレムの組み合わせを不思議に思ったが、名越曰く、
「ウチは元々『水本臨海鉄道』だったんだが、時代の諸事情で鉄道以外にも自動車とか不動産とか色んな事業をくっつけた。くっつけるにあたって無難な名前が必要になって『ベイローレル』になったんだが、社内外のアレコレで鉄道事業に関しては対外的な名称として『水本臨海鉄道』が残ったのよ。……政治って大変だわね」
気にしたことはなかったが、複雑な歴史があると改めて聞くと、この会社を一つにまとめるのは結構大変なことだと容易に想像がついた。
タバサは、名越の前職での活躍も失意も知っている。
だから決して無能ではないと分かっている。
それでも、いつもダメな面ばかり見せつけられているからか、名越がこの寄り合い所帯とも言うべき会社をまとめ切れているとも思えなかった。
そしてタバサの懸念は無情にも当たっていた。
ガラガラと仮設建物一階の戸を開けると、室内の左手には執務机で仕事をする所員、右手には打ち合わせ用の長机が並び、その上に図面や工程表とおぼしき紙が雑然と積まれ、いくつか小さなペットボトル入りのお茶が無造作に置かれていた。
壁際では扇風機が首を振り続けている。湿った作業着と埃の匂いが、冷房の弱い風に混じっていた。
戸口に立つ名越へ、いくつもの顔が向いた。
誰何するような視線。
一瞬の戸惑い。
そして誰も口にはしないものの、場違いな人物に対して
「何しに来た」
そう言われた気がした。
(……これは、思っている以上に……)
名越は思わず半歩下がりかけたが、後ろにはタバサが控えていた。
片手には差し入れの紙袋、もう片方には飲料の入った箱を抱えた名越は、戸口を塞いだまま、後ろへ退くこともできなかった。
覚悟を決めて一言、
「ご苦労さまです」
室内に響いた声は、空調の音にかき混ぜられ雲散霧消した。
返事も、反応もなかった。
図面を睨んでいた者は視線を紙へ戻し、電話中だった者は背中を向けた。
名越の挨拶が生み出したはずの波紋は、疲れて殺気立った復旧工事事務所内では、さざ波にすらならなかった。
立花から現場の状況は聞いていた。
だが、それだけだった。
時にはトップが顔を出し、声を掛けることで違ってくる。
五月の連休頃まではそう考えていた。
今は、何が正しいのか分からなかった。
誰も席を立とうとすらしない中、一番奥の席にいた男が書類から視線を上げ、仕方なく、といった風に立ち上がり、こちらへやって来た。
年の頃は五十歳前後。
全社員は無理でも、せめて各部門の管理職以上の社員の顔と名前は覚えるようにしていた名越は、その男がこの鴨潟地区復旧工事事務所の所長だと思い出した。
所長は名越の前まで来たものの、椅子を勧めることも手土産を受け取ろうともしなかった。
「所長。どうもお疲れさまです」
「お疲れさまです。立花本部長ではなく、社長がわざわざいらっしゃるとは……。何か問題でもありましたか」
「いえ、立花さんから報告は貰っているんですが、やはりこの目で現場を――」
「報告なら毎週上げていますが」
声は右手の長机から飛んできた。
男は椅子に座ったまま、図面から顔だけを上げていた。
「ええ。それは承知しています。決して報告を疑っているわけではなくて、何か不足が――」
「不足があれば立花本部長に話しています」
今度は反対側だった。
名越がそちらへ顔を向ける。
「もちろん、立花さんの判断に口を出すつもりは――」
意図が取り違えられないよう、名越なりに気を遣ったつもりだった。
念のための現場巡視。
念のための言葉。
それは時として、あらぬ方向に転がってしまう。
「だったら、何を見に来たんですか」
名越の言葉が終わる前に、奥から声が重なった。
紙袋の持ち手が指へ食い込んだ。
名越は荷物を持ち替えた。
床へ置こうとして、狭い通路を塞ぐことに気づき、やめた。
「何か、現場で足りていないものがあるなら、私の方で立花さんと――」
「今ここで見つけたら、その場で直せと言うんでしょう」
「いえ、そういうことでは……」
「本社の人は、見たところだけで全部分かったように言いますからね」
誰も立ち上がってはいなかった。
誰も声を荒らげてもいなかった。
それでも、名越だけがいつの間にか部屋の中央に立たされているようだった。
タバサは戸口の脇へ体を寄せ、何も言わずに見ていた。
「立花本部長とは、こっちはこっちで話をして進めています」
「……ええ」
「それを、社長が直接見に来ると言われても」
「だから私は、立花さんを飛び越えて何かを決めようと――」
「五月には、ここには来なかったけどな」
地を這うような低い声が、事務所の奥から広がった。
誰もその言葉を拾わなかったし、名越もまた答えられなかった。
別の者が書類を机へ置いた。
「他の現場は回ったと聞きました」
「それは……」
「ここは後だったということですか」
「違います。そういう意味では――」
「なら、どういう意味なんですか」
名越は口を開いた。
だが、その言葉を選んでいる間にも、別の場所から声が続いた。
「復旧が遅いと言われるのは、こっちなんです」
「本社から決まっていないと言われても、聞かれたら説明しなきゃならない」
「人が抜けても、工程は変わらない」
「おい、少し冷静になれ」
所長が振り返った。
その声で、所員たちは一度口を閉じた。
だが、一瞬の沈黙を穏やかな声が破った。
「こういうことを言うべきではないと分かっていますが」
名越の人生で、話し相手がこの前置きをした時は決まっていた。
所長の隣の席にいた男が、名越を見ていた。
「『今更』ですが、何かご用ですか?」
穏やかなのは声だけ。
問いは剣呑そのもの。
名越は返事をしようとした。
最初の一言が出なかった。
「会社は数字としての従業員としか見ないでしょうが、俺達には名前があって、家族があって、人生があるんです」
「……おい」
所長の制止より先に、別の声が重なった。
「お命を頂戴いたします、とでも言う気ですか」
「おい、止めろ!」
所長の声が強くなった。
だが、今度は止まらなかった。
「じゃあ、社長は何しに来たんだよ」
初めて、敬語が崩れた。
「何か言ってくださいよ」
「ここまで来て、黙ったままですか」
「社長から、何かおっしゃらないのですか」
所員たちの口から、今度は名越の沈黙そのものを責める言葉が重なった。
名越は差し入れを抱えたまま、誰を見ればよいのか分からなくなっていた。
謝らなければならない。
だが頭を下げる前に、何について謝るのかを言わなければならない気がした。
何かを説明すれば、言い訳になる。
黙っていれば、逃げになる。
そして機を逸した名越は、頭を下げて謝罪することも、言葉を並べ立てて言い訳することも叶わなかった。
所長が所員たちを見回すと、絞り出すように名越に言葉を向けた。
「……何も出来ないなら、今日のところはお引き取りください」
その場を収めるために必要な言葉なのは分かっていた。
ここで名越に気遣うような言葉を掛ければ次は、誰がそれを受け止めるのか。
分かっていても、分かっているからこそ辛いものがあった。
だから所長のその言葉に反論すら出来ず、怒りや負の感情も何もない無表情で小さく会釈した。
持ってきた荷物は、最後まで誰にも渡せなかった。
そのままゆっくりと踵を返し、タバサと共に事務所を出た。
砂利敷きの空き地へ出ても、しばらく二人は何も言わなかった。
「……随分とやられたね」
「……仕方ねぇべ。それも社長さんの仕事ですよ」
名越は鼻から大きく息を吸って口から細く長く息を吐き出すと、自分に言い聞かせるように、
「反省すれども、後悔せず、ってな」
そうでも言わなければ立っていられなかった。
それに対してタバサは口を開き掛けたが、言葉が出てくることはなく、何も返すことが出来なかった。
しかしこの場にタバサがいた、という事実は思いの外重かった。
後ろにいたからこそ逃げられずに向き合うしかなかったが、倒れずに立っていられた。
今まで『肝心な時に役に立たない、いないヤツ』と思っていたが、今回はいた。
だから今、手放したら後悔する。
名越の心で燻り続けていた恐怖が、どこに繋がるか分からない道を見つけてしまった。




